組み立て後に、新たな式文立てへの祝福の祈り、また
今まで用いられたものへの感謝の祈りが捧げられました。
会員の方が、ご自宅マンションのバラの花をお捧げ下さいました。
1/20 礼拝堂です。
1/19 思い立って久しぶりの益田小浜の海岸です。
今週の教会の予定、牧師の動静は以下の通りとなります。
1/22 火曜日 11時 牧師 柳井行き
15時 徳山聖書研究
1/26 土曜日 14時 益田礼拝
19時 六日市礼拝
1/27 日曜日 10時45分 徳山教会礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ルカ福音書4章16-30節】
「ボタンの掛け違い」は起こってしまうものです。主も例外ではありません。聖書前半では、主がナザレ村の会堂でみ言葉の朗読と説教をなさっていました。しかし中盤で急展開を見せ、後半では主がナザレの崖から突き落とされそうになるのです。何が起きたのか。表面上もこれまでも、友好的と思えた主とナザレの人々との関係を悪化させたのは何か。ボタンの掛け違いへの主の応答は何か。み言葉は多くのヒントを語ります。
今日の聖書は、22節の言葉が鍵となります。22節の内容は、翻訳によってその内容が変化します。確かに日本語の聖書通りの意味もありますが、「皆はイエスをほめ(イエスの過去を口にし)、その言葉に驚いていった(その言葉を疑った)」というようにも訳せるのです。要は、ナザレの人々は幼少期や青年期の主の姿にとらわれ、主の言葉をすんなり受け止めなかった。それだけでなく、み言葉とその解釈とは別のことを口にした。それが主のみ言葉との「ボタンの掛け違い」となってしまった、ということなのです。
しかし、このナザレの人々の姿は人間らしい姿です。主の姿を小さい頃から見知ったものとしては、主の言葉に戸惑いを覚えざるを得ないのです。平たく言えば、成長したご子息たちや生徒が立派なことを言えば、感心と同時に茶化したい気分にもなるでしょう。主も、ナザレ以外のところで名声を高めていました。帰郷した主に、ナザレの人々も複雑な感情を抱いていた。その感情が「ヨセフの子」という言葉に現れたのです。
「売り言葉に買い言葉」のようですが、主も古事を引いてナザレの人々に応対します。怒った人々は主を殺そうとする。群集心理によって私刑が決められるあの十字架の先取りのようです。しかし主は「人々の間を抜けて」自分の道を行かれるのです。後の「怒ってはならない」の教えと反するようですが、主も人の子として、私たちに先立って歩まれました。勇気を出して「掛け違いが多い」世の中を生きていきたい。そしてどのような時にも「自分の道を歩む」私でありたい。主は、先導者、同伴者として私たちを導きます。