2019年1月6日日曜日

1/6 礼拝と献花





 夜遅くの徳山C礼拝堂です。
 周囲や陽光がなく、照明のみの礼拝堂もなかなか趣があります。

 年初の礼拝でしたが、本日も大勢が集われました。
 ただ、ご母堂をお見舞いのTさん、体調回復のMさんから欠席の連絡がありました。
 2シーターのいわゆる「スーパーカーだ!」という子どもたちの声に迎えられたUさんもお見えになりました。

 今週、来週の予定は以下の通りです。

 1/8 火曜日  11時   牧師 柳井行き
        15時 徳山聖書研究会


 
1/12 土曜日 14時 益田礼拝
        19時 六日市礼拝 

 1/13 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
  

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書21-12
 主がお生まれになったことを記念して、贈り物が捧げられる今日の聖書です。高価そうな贈り物が主に捧げられる、景気の良い話です。ただ、果たしてこれは「景気良い話」か。その裏では種々の人間の様々な思惑が絡み合い、自分勝手、身勝手によって結果的に大惨事を引き起こす話なのです。ルカ福音書は「馬小屋」や「荒野」といった環境での降誕を、そしてマタイ福音書は過酷な人間社会への主の降誕を語ります。それが新年です。

 まず、唐突ですが宗教改革者のルターの功績の一つは、「み言葉を身近に」でした。その中での讃美歌、聖書翻訳の働きがありますが、これはルターの専売特許ではない。5世紀、聖書翻訳を為した人がいました。その人の解釈で「黄金、乳香、没薬」の意味が定義づけられました。黄金は王、乳香は神、没薬は十字架と復活の象徴というものです。学者たちがどのような意図で捧げたかは不明ですが、主の生涯を象徴する贈り物と理解され続けています。しかしその学者たちも、今日の聖書の人物たちも一癖ありました。

 そうです。学者たちは「導きの星を見失い」目的地を間違ったのです。そして猜疑心の塊であるヘロデの本質を見抜けず、血塗られた王朝を築いたヘロデに「新たな王」の誕生を告げます。煽られたヘロデは、御用宗教者たちに主の居場所を尋ねますが、宗教者たちも「み言葉を捻じ曲げる」のです。「ベツレヘムは決して小さな村」でないと。火に油を注がれたヘロデはその後、ベツレヘム周辺の嬰児虐殺令を出し、兵士は実行します。

 個々の出来事を探って行けば、説教でなく物語解説になります。大切なことは、主はそのような人間社会に降誕され、神さまも主を過酷な社会に降誕させたことなのです。ルターに先立つ5世紀の教父は、そのような主の生涯を贈り物によって解き明かしたのです。王である主は、十字架と復活を通られる神さまと。今年も私たちの生の現場は既に始まっています。正月ばかりは穏やかかもしれません。時に私たちは身勝手さの現場に於かれます。全てを引き受けつつ、引き受けて下さる主と共にこの年を生きたい。