野の百合が捧げられました。
8/18 徳山Cの礼拝堂です。
ヒマワリが捧げられました。
今週、来週の予定は下記の通りです。
礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。
8/20 火曜日 15時 徳山聖研 休み
8/21 水曜日 19時 六日市C礼拝 休み
8/24 土曜日 15時 柳井C礼拝
8/25 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
8/27 火曜日 15時 徳山聖研 休み
8/28 水曜日 19時 六日市C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ルカ福音書 12章49-53節】
キリスト教は「清貧」「道徳」の教えを説く印象があるかもしれません。明治期の宣教師の影響も大きいでしょう。確かに「清く、正しく、美しく」は大事なことには違いありません。しかし当初、主の周囲に「清貧」「道徳」は二の次な人々がいたことも事実。主はその人々と親しく接し、「神の国の到来」を告げたのです。人間の行いである「清貧」「道徳」でなく、神の行為である「苦悩からの助け」を念頭に置いて、今日もみ言葉を聞きたい。
さて、今日の主のお言葉を記載すれば「苦しみ(50)」に居られることが浮かび上がってきます。「受けねばならない洗礼(50)」の故です。ご自身の十字架をお語りになっています。ではなぜ主は十字架へと向かわれるのか。一つには、当時の宗教者との対立でした。彼らが「罪人」と定めた人々に手厚く接した。人気への嫉妬ゆえに主は奸計と知りつつ、十字架へと向かいます。主は彼らとの間には、「平和(51)」は創らなかったのです。
ですので、「地上に火を投ずる(49)」、「分裂だ(52)」とは、言うまでもなく一般家庭への無差別な過激な言葉でない。むしろ、当時の宗教者への対立の意思を弟子たちに示したことになるのです。対立姿勢を鮮明にすることによって、一つの家庭で分裂が起きるかもしれない(52-53)。主は「八方美人」はなさらず、焦点にあるのは「苦悩からの助け」「現実に生きる人」への働きでした。その端緒をみ言葉に見出すことが出来ます。
「家族の分裂、分断」のことは考えさせられます。近しい肉親だからこそ、分断の際には心傷むのです。聖書記載の事柄(52-53)が、自身のことを言われているような気にもなります。しかし主は私たちを痛めるために語ったのでない。直後の13章にもある「不条理」や、「理不尽」に接することがある私たちのために、これからの日々も共に居て下さるのです。「火」に類する十字架を越えた主が「苦しみ」に生きる私たちを導くのです。