2020年1月12日日曜日

1/11.12 礼拝と献花

  ある主日の防府C礼拝堂です。
 主の顕現を覚える礼拝から、2020年が始められました。
  こちらは柳井C礼拝堂です。
 今年の総会では、礼拝堂中央の赤じゅうたんを新たにすることが
 話し合われることと思います。
こちらは1/12の徳山C礼拝堂です。
 はやばやと来週の典礼色に変えられました。

今週、来週の予定は下記の通りです。

1/15 水曜日 19時 六日市礼拝

1/17 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
  
1/18 土曜日 15時 柳井C礼拝 

1/19 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
        15時半 防府C礼拝
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


マタイ福音書 313-17
 「主の洗礼」を、私たちは毎年礼拝の中で聴きます。この個所から、私たちも自ずと「洗礼」への意識が向くかと思います。確かに大事なことかもしれません。ただし、洗礼を受けられた主のお気持ちは何よりも、この式によって「人々とつながる」ことでした。主は神の子、罪が全くないお方でした。その主が遠路を進み、人々と時を過ごし、そして洗礼の場に立たれた。これはつまり、主があなたと同じ所に立たれるということを意味します。

 「その時(13)」と聖書は書き始めます。洗礼者ヨハネの登場と、彼が主を紹介した時(31-12)を受けてのことです。続いて地域名も記載されています。「地名」ではありませんので特定は難しいのですが、この時主はヨハネに会うため、直線距離で100キロの道のりを辿ったと考えられます(ガリラヤ地方のナザレ町から、ヨルダン川の河口ベタニア)。主にはそれだけの距離を行く理由があった。ヨハネから洗礼を受ける事、ヨハネの洗礼を求める人に会うこと、それが主に、長距離を越えさせた大きな理由なのです。

 「洗礼」とは、罪の赦しのために行われます。前段落を見ると、大勢が洗礼を受けています。ここで、洗礼を受けたいと願った主にヨハネは戸惑いを見せています(14)。しかし主はご自身の洗礼を「正しい」と語られ、受洗願いを退けません。かつて「正しい」という表現は、妻マリアと赤子と「共に在り(インマヌエル)」、救う(イエス)」主の父ヨセフを説明する際に用いられました。主はここで、父が示した生き方を再現なさるために受洗されたのです。つまり、目前の共に生き、支え、救うという決断です。私たちにも重なります。

 当時の洗礼は「浸礼」でした。そのままならば溺れ死ぬ状況から、助けの手が救い出すという式でした。人生の荒波、社会の激流という表現があります。そこに生きる私たちは、かつて教会に結ばれることで助け出され、休憩の場が備えられました。洗礼は一度きりですが、荒波や激流から助け出す主の出来事は何度でも私たちと共にあります。主があなたと結ばれているということの意味を新たにしたい。そして、日々を過ごしたい。