10/21(金)早朝に収穫されたピーマンを、六日市の方が届けてくださいました。
ボロネーゼソースとあえて、お昼の品にしました。
10/23(日)防府の礼拝堂。裏の生け垣が梳かれました。
見通しが良くなりました。
10/22(土)柳井の礼拝堂。献花も秋の花の盛りです。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
10/26 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝
10/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
11/2 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝
11/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ 説教 「気落ちする現状の中で」
「一喜一憂」とは、日々の生活の中で起こります。好い事の半面、理不尽もあります。加えて「感情労働」の場合や立場上、内心を出すことを遠慮する時もあると思います。日課の裁判官は、当時の制度上、不思議な設定です。「神と隣人を愛する(申命記6章、レビ19章)」律法に根差して人を裁く彼が、自ら「神を畏れず、人を人とも思わない(2.5)」と公言するのです。でも、あり得ない人や出来事があることを、主は現実として語るのです。
設定の不思議さは、裁判官だけではありません。「一人のやもめ(3)」にも注目です。いわゆる「やもめ」には、旧約聖書に「保護規定(申24)」を見出せます。しかし福音書の彼女は、何かのトラブルを受けているのです。どちらに非があるかを問うことはできませんが、当事者間では解決が困難となっているのです。主は、律法という建前と、生の現実を告げます。そして人々がその中で、もがいていることを、生きる一人としてお覚えなのです。
たとえ話の中で、一読すると主は妙なことを言われます。6節「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と。裁判官自体の言葉に、聞くべきものはありません。しかし主は、「裁判官の塩対応に困る彼女」に思いを向けることを促しているのです。そして裁判官は、熱心な(格闘するような:旧約)彼女に根負けするのです。主は「まして神は、叫び求める声を聞いて下さる」と結びます。落胆せず、諦めることなく祈ることの大切さが告げられます。
十字架の直前、主はゲッセマネの園で祈ります。また後年パウロは、困難に直面していたテサロニケの教会に「絶えず祈りなさい」と送ります。個人的に「一喜」は文字通りで、「一憂」は「多憂」と思えます。古人も同様の中で、「祈る」ことを覚えたのです。祈りは、孤独な独り言ではありません。聞いて下さる神さまとの対話なのです。「多憂」の中で、自身や他者のための祈りを欠かさぬようにしたい。神さまが、私たちの思いを聞かれています。