10/2(日) 秋らしい雲です。
礼拝堂西からの写真です。
ユリの花がいい感じ。
こちらは10/1(土)柳井の礼拝堂です。
献花は「秋の七草」とのことです。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
10/5 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
10/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
10/11 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
10/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
「神の赦しと人の許し」
「理不尽な状況」に直面することがあります。聖書の直前には「もし兄弟が罪を犯したなら(17:3)」とあります。この言葉は、解釈で私たちの日常そのものとなります。逆もまた真です。聖書通り「被害者」となった場合、主は「戒めて、悔い改めれば赦しなさい(3)」と言われます。それが出来ればどれほど良いか。つまり出来ない原因は何か。弟子たちは「信仰不足だ」と認識したのです。そのような弟子たちの思いが、今日の聖書に繋がります。
原則ですが「信仰」とは、信じて仰ぐという人の行いを表します。私たちにとって、対象は神さまで、信仰者の「生」は規定されず、副次的な事柄です。問われるのは「神さまを仰ぐ」ことなのです。しかし「聖書の片言隻句」から「私たちの行い」が問われる時、不十分な思いも負います。直前の「戒め、赦せ」も同様と言えます。弟子たちも、自身の「信仰不足」を第一に思い、「赦すために、信仰力の増大」を主に願ったというのが、長い前置きです。
さて、「信仰を増して下さい」の問いに「小さな信仰でも、あれば桑が海に根付く」と主は言われます。人間の心では、どうしようも「出来ない」ことが言われます。そうです。弟子たちは「自分が赦す」という目線で物事を考えていました。しかし主は「自分から神さま」という目線に視点を移させるため、この突飛な話をなさったのです。人には、桑を海に根付かせることはできません。しかし神さまならば、想像も付かない形で、おできになるのです。
7節からのたとえ話の主人と僕。主人は僕に日常業務を命じ、僕は実行します。主人は感謝せず、「食事」つまり報酬もありません。僕である私たちは日ごと夜ごと、託された自身の働きに勤しみ、「しなければならないこと」をするのみです。ただ一か所、主人は既に私たちの「存在」に感謝しつつ、生きるための支えという報酬を下さっています。「存在を喜び、主を共に居らせる」のです。この事柄を踏まえて、私たちは種々のことに向かいたい。