四旬節もそろそろ終わりに。
3/26(日)防府礼拝所です。納骨堂の周囲には水仙が。一足早く、復活の香りを。
右には、懐かしい方のお写真が。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
4/5 水曜日 18時 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝
4/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 ※イースター
4/9 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝 ※イースター
15時30分 防府チャペル礼拝 ※イースター
4/12 水曜日 18時30分 六日市チャペル礼拝 ※イースター
4/15 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆ヨハネ 11:1-4、29-37 (新188)
■ 説教 「生きよ」
「神の沈黙」は、古くはヨブが問いました。「あなたはお答えにならない(ヨブ30:20)」と、ヨブは神の無言に激怒しています。新約聖書では、今日のマルタとマリアが、主の行動に疑義を呈しています。性格が異なる両者でしたが、兄弟ラザロの死に際して「主よ、もしここに居て下さいましたら(21.32)」と、同じ責め句を主に向けるのです。なぜ主はあえて遅延したのか、すぐに来られないか。「復活する」と即答された主の思いを聞きたいのです。
まず「遅延」は15節、弟子たちの信仰を育てるためとあります。二人のマリアたちも含まれるのでしょう。しかし弟子たちもマリアたちも、主の意図が分からず、「沈黙している」とするのです。全ての事には意味がありますが、過程を歩むときには分かりません。「死」とは、残された者に何をもたらすのか。心には悲しみを、生活には不確かさを、日常を変え、穏やかな日々を奪うものと言えます。そういう死がラザロに訪れ、そこに主が現れます。
多くの人がラザロを弔問しています。葬儀時には人も、為すべきことも多く、気が紛れるのです。ただ、その中でマルタ、マリアは決定的な疑問「どうして、遅くなったのですか」と問います。その問いに、主は個別に対応します。マルタには「復活する(23)」と言いますが、マルタは、当時としては革新の返事をします。「それは存じています(24)」と。陰府の理解を覆す返答に、主はマルタが「信仰的な育ち」の過程を既に経ていると了解するのです。
マルタは「成熟した信仰者」として書かれる一方で、マリアは涙の中で言葉を発するのが精一杯です(32)。主の応対はこの場合、復活を先取りしマリアに示すのです(43)。その過程で起きたことは、人に悲しみをもたらす死に憤り、涙を主も流し、ラザロ「生きよ」と言われたことです。「マルタとマリア」は、一人の人間の信仰に、同居するものでしょう。双方になり得ます。神の沈黙を思う時、あきらめず、問い、祈り続けたい。希望を生みます。