3/20(月)朝の徳山礼拝所です。
朝の光が記念堂に当たっています。
イースターには洗礼式が行われます。
呉市安浦町に寄りました。
山頂からの土砂流出は、5年経ってもその光景を留めています。今週、来週の予定は以下の通りとなります。
3/21 火曜日 牧師 兵庫県出張
3/22 水曜日 18時 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝
3/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
3/26 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/29 水曜日 13時 牧師 益田市出張
18時30分 六日市チャペル礼拝
4/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆ヨハネ 9: 1~12(新184)
■ 説教 「開いた目で見えた神の愛」
盲人に「盲目は、本人の罪か、親の罪か(1)」と言う感性の源は何か。申命記28:28の考え方が、背景にあります(神の罰)。古代人の思考には、時代の制約があります。一方で申命記(B.C640頃)の成立背景には、アッシリア捕囚(B.C740)を聞いた編集者の「み言葉に聞け、過去は…」の切実さもあります。これも時代の制約ですし、神罰的な考え方は肯定できません。むしろ聖書の主イエスの、時代を越えた画期的なお言葉に注目です。
「神の業がこの人に現れるためである(3)」神さまは、この人を通し、働くという意味です。バビロン捕囚(B.C597)により更に強固にされた「神の罰」との申命記理解を超え、「神の為さることに信頼せよ」とのヨブ記理解の発展形です。「因果応報」とは、旧約聖書の場合、善悪の行為に原因を求め、神が結果を給うという思想です。主は、その思想が強い時代の中で「遣わした方の業(5)」を世に居る間、行うと言われます。「夜」が来る前に。
「誰も働くことが出来ない夜が来る」とは、何か。主が十字架に架けられた直後かと思えます。全ての希望が失われ、絶望のみがある時。その十字架は、ヨハネ福音書の場合、この「盲人の癒し」が契機でもありました。癒された盲人は、ファリサイ派に「誰が安息日に癒したのか」と、主の名を言わせようとします。盲人は答えませんでしたが、彼らはそのために、盲人を追放刑に処します。「共同体への復帰」を促す、本来の働きを逸しています。
盲人は、癒され、目が開けたのに、共同体に復帰できません。「自分の罪か、親の罪か、神の呪いか」との悩みの時から、「神の愛」である希望が見えたと思ったら、絶望。癒されたことを原因とし、共同体追放という結果を招くのです。主は、その因果応報の現実に「共にある」ことを通して介入します。「応報思想」が行きつく先は、個々人の痛みです。希望が失われた時、主は共に立ち上がる方です。そのことが、「神の業」として示されたのです。