3/14(火)徳山礼拝所の献花です。朝の光が、礼拝堂に入ってきます。
3/12(日)防府礼拝所、牧師館の裏手の桜です。こちらは玄関の桜。その後ろで梅は、ひっそりと花の盛りを終えていました。
華やかな桜、静かな梅。だんだん、梅が好きな年齢になってきました。
20年ほど前、地区で働かれた牧師先生の召天を覚え、祈りがささげられました。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
3/15 水曜日 18時 六日市チャペル礼拝
3/16 木曜日 牧師 広島県出張
3/18 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
3/19 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
3/21 火曜日 牧師 兵庫県出張
3/22 水曜日 家庭礼拝 六日市チャペル礼拝
3/25 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ 説教 「心の嘆きを包まず述べて」
「サマリアの女」は、私自身です。主イエスへの関心より、自身のことで手一杯です。しかしこの女は、主との関りを通し、心を開くよう、導かれたのです。同じことが言えます。ヨハネ福音書には冒頭に、異なるタイプの二人を記します。一人はニコデモ、ユダヤ人の議員、教師、主に傾聴する人。もう一人はサマリアの女。サマリア人で、しかもその町からも疎外され、主に興味がない人。しかし主はこの女性が、心を自然と開けるように導くのです。
正午頃「サマリアの女が水を汲みに来た(7)」とあります。「過越祭(3章)」の後、4月と仮定すれば、日中はやや暑気です。そして、朝からの家事用水を、昼に汲む事から、女性に何かを見出せます。「五回の結婚と、離縁状(17)」。当時の離縁制度は「夫が妻に何か恥ずべき所を見出したら(申24:1)」の律法が典拠でした。「何か」を察する人々により、彼女は町から疎外されていました。その中で彼女は、疲れている男を井戸端で見るのです。
彼女は「サマリアとユダヤの差(9)」を主に告げます。旅疲れの主(6)は、対話の中で(7-14)女性に「心の渇き」を気付かせます(15)。「差」が鍵です。これはイザヤ、エズラ記に記載されます。要は、過去サマリア地方が見捨てられ(イザヤ)、神殿を一緒に再建しようというサマリア側の申し出を、ユダヤが拒否した(エズラ4:1)ことがありました。女性は、拒絶されたサマリアの「差」、昔を踏まえ、今も自分は拒絶されている状況を言うのです。
先週のニコデモとの話に共通するのは、現状への嘆きと、あきらめと言えます。人は、心に多くを抱えつつも、それを自己の問題として押し込めてしまうのです。しかし主は、この女との対話を通し、その心を出せる場所としてのご自身を示すのです。「魂の飢え」を覚えるのは、私たちも同じでしょう。「霊と真理をもって礼拝する」勧めがなされます。しかしその原点は、主に「窮状を話した」ことでした。「自己の問題」を、祈りを通して主に語りたい。