2024年10月29日火曜日

10/26.29 柳井と徳山

 

10/29 いつしか秋になりました。

酷暑を乗り越えたメダカたち。

10/29 朝から曇りの徳山。午後遅い時間に雨の徳山

花壇は教会員さんのお手入れによります。


10/26 柳井 宗教改革礼拝でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

11/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

11/6 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

エレミヤ31:3134 (1237)

 説教              「昔のことは今のこと」 

   マルチン・ルターの「聖書に帰ろう」という呼びかけは1517年「宗教改革」となりました。「感染症」が「世界を不安で覆う」時代の中でした。本来なら、教会は不安に直面する人々を支えるはずでした。しかし時の教会の一部は、不安の波に乗じ商売をしていました。

 

   エレミヤ書の「新しい契約」で、神は、石板の「十戒」に替わる手段を示します。なぜか。エレミヤの結びは事実としての、都の飢餓と、他国による破却と捕囚です。滅亡に向けた中で、エレミヤは心の備えを語ります。み言葉は神殿に替わり、個々の人にあると告げます。

 

   エレミヤは、ルターが主張した「先行する神の恵み」の原型を語ります。ルターの時代の感染症、ペストは人々に「死の凄惨さ、大量の死、不可解、恐怖の継続」を示しました。エレミヤは堕する偽預言者に替わり、ルターは堕する教会に替わり「根付く神」を説くのです。

 

   ルターの地域では、教会は「一枚のお札(免罪符)」を「不安の払しょく」に用いました。ルターはその時代の中で「人を義とされる神と、イエスの働き」を伝え、教職には「大教理」信徒には「小教理」を記しました。今も困難な時代の中、「真理」を求めて過ごしましょう。






2024年10月25日金曜日

11/19.20.23 柳井、防府、神戸

 

 10/23(水) 久しぶりに神戸教会に出張してきました。

 写真は神戸教会、礼拝堂です。

 心臓破りの坂を速足で上り、汗をかきました。

 10/20(日)防府の礼拝堂です。

 天窓のステンドグラスが写せないかと試行錯誤。無理でした。

 10/19(土)柳井の礼拝堂。

 きれいな花を前に、子どもたちのテンションが上がりました。

 週末の更新になってしまいました。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

10/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/29 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です

11/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■マルコ10:3545(82)

 説教              「起きたことは天啓」 

   主イエスに「コネ」で出世を頼む兄弟弟子、そこに立腹する他の弟子たち。主イエスは彼らに何を言うのか。さて、兄弟弟子は「栄光を受ける時」と言います。主イエスは、直前で「栄光」に触れません。一回目「受難予告(8:38)」の「栄光にて来る」の反映と見ます。

 

   第一朗読は、旧約・イザヤ書の「苦難の僕」です。「捕囚」という苦渋の極致にある同胞に、苦渋に共感する「苦難の僕」を送るイザヤの預言です。主は「僕」をご自身と重ね、苦難の最期を迎えること。また、人の負い目を負う自身を「身代金」として位置づけるのです。

 

   一方、兄弟弟子たちは、直前の「苦難」に触れず、「栄光」に思いが留まります。主の願いである「苦難の同伴者」を理解もしません。しかし兄弟たちは「盃も洗礼も受ける」と、やがて主が語った通り、苦難を辿ります。それは主の復活の出来事と、聖霊降臨後でした。

 

   主は「仕えること」を告げます。ディアコニアという言葉の語源で、原意は「チリかぶり」です。「額や心に汗をかく」ことで、チリは見えます。弟子たちは「共有の社会(使徒2:44)」の中で、実行します。「起きたこと」に対し、額や心に汗をかいて日々を過ごしたい。


2024年10月13日日曜日

10/12.13 防府、徳山、柳井

 

 ある日曜日の防府チャペルの様子。聖壇のお花も秋となりました。
 柳井の様子。
 下松の海岸。遊歩道が海にせり出している「はなぐり海岸」です。
 こちらは柳井。秋のお花の代表格、コスモスです。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

10/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/22 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■マルコ10:1722 (81)

 説教              「背を見る瞳」 

    「富める青年」は「永遠の命」を求めていました。「陰府」でなく「豊かなみ国」への願いと言えます。青年は、単独・孤独という意味の「陰府」への出立を望まなかったのです。その青年に主は、十戒5~10項を問います。これらは青年に実行出来ているものでした。

 

主が、安息日の礼拝規定(4項)を外したことがここの肝要なことです。礼拝規定は、礼拝行為の勧めのみではありません。安息日は、隣人を物心で覚えることを目指します(レビ23:38)。主は青年の「関係の希薄さ」に気づき、「関係を創る」ことを勧められます。

 

これを厳しいとと取る青年は主のもとを去ります。その青年を主は「慈しんで」見送ります。単独・孤独から脱したかったために主のもとを訪ねたのでしょうが、その状況は続くのです。モノに、自己に執着する人を覚えた主は、やがてご自身の全てを差し出されました。

 

主は彼を「慈し」みました。「慈しみ」とは、深い情愛と言い得ます。つまり、自己を惜しみ、他者への愛に踏み出せない私たちの姿です。そこに主は究極の自己放棄をなさいました。私たちはその主との関わりに生きています。「単独・孤独」なこの世の人々を覚えましょう。