2026年5月17日日曜日

5/13防府枝払い、5/14西宮教会、5/17徳山礼拝所

 

5/17(日)早朝に撮りました。

明日から入院される予定の方を覚えて祈りました。

5/14(木)兵庫県、西宮教会に出かけてきました。

会議前、会議室から礼拝堂を撮りました。

5/13(水)わがままに伸びている、防府の生垣。枝払いを行いました。
ほうきとくまでを立てかけてあります。

いかにも作業後の様子ですが、実はこれから。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


5/20 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/23 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

5/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

5/27 水曜日 16時 六日市チャペル 礼拝 

5/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

5/31 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

5/17(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

主の昇天主日 説教 

ルカ福音書2444-53節 「そこから始まる」

水原一郎

 私たちは皆、それぞれに「触れられたくない出来事、過去」を抱えて生きています。思い出すたびに胸の奥が重たくなる出来事、言い直せなかった一言、取り返しのつかないと思えてしまう判断。説教者である私自身も、そのような過去や場所を、できれば思い出したくない、避けたいと思いながら生きてきました。今日の聖書は、その痛みを急いで説明しません。むしろ、そこに立ち止まることを促します。そこに「主イエスの昇天」が起こるのです。このことは、弟子たちにとって別れの出来事でありながら、慰めと新しい歩みが、すでに始まっていることを示す出来事でした。


 今日のルカ福音書は、繰り返し「エルサレム」について語ります。この場所は弟子たちにとって、美しい記憶の場所ではありません。とりわけ主の十字架の直後です。これは、はるか昔のことではありません。今日の出来事から一週間も経っていない、近しい過去です。主イエスはそこで拒まれ、十字架に架けられました。弟子たちにとっても、エルサレムは恐れのあまり逃げ出し、沈黙した場所です。特にペトロは、逃げ出した後も主の行く末が気になり、裁判の場にそっと忍び込みます。しかしそこで、主イエスとの関係を問われ、彼はそれを否定してしまいます。その時、鶏が鳴くのです。ペトロにも、私たちにも、思い出したくない「場所」や「時間」があります。しかし主は、「悔い改めと罪の赦しが、エルサレムから宣べ伝えられる」と言われます。主は、私たちの失敗や痛みを避けて働かれるのではなく、そこに目を向け、そこから始められるのです。


 主イエスは、そのような「都に留まりなさい」と弟子たちに命じられました。早く立ち去りたい、忘れてしまいたいと思う場所に留まることは、決して容易ではありません。弟子たちにとってエルサレムは、再び立ちたい場所ではなく、命の危険すら感じさせる場所であったはずです。それでも主は、彼らを一人でそこに置き去りにはされませんでした。「上からの力」を約束し、心の目を開かれた上で、待つように命じられたのです。私たちが痛みの中に留まる時、主は沈黙しておられるのではありません。むしろ、必要な力を備えようとしておられる。ここに、聖書が語る確かな慰めがあります。


 主イエスは、弟子たちを「祝福」しながら昇天されました。それはどこか、創世記で神が世界を「良い」と言われた場面を思い起こさせます。傷を抱えた弟子たちをなお「良し」として受け止め、祝福しておられるのです。弟子たちは、その祝福を受け、悲しみに閉じこもることなく、礼拝しました。大きな喜びをもって神を賛美しました。これは、痛みが消えたからではありません。傷の記憶が消えたわけでもありません。主イエスは、傷や痛みを持つものを祝福されることを彼らは知ったのです。祝福は、痛みや傷の心にも及ぶのです。昇天は、主が遠くへ行かれた出来事ではありません。むしろ主イエスの慰めが、私たちの現実の中で始まった出来事なのです。


 私たちは今、それぞれ異なる痛みを抱えて、この礼拝に集っています。解決していない問題、先の見えない不安。主は、それらが片づいてから宣教が始まるとは言われませんでした。「都に留まりなさい」と言われた主は、時が来るまで待つこと、祝福を受け続けることを命じられました。宣教は、勢いよく始まるものではなく、痛みを抱えたまま、神の力を待つ中で、静かに始められるものなのです。昇天された主は、今もここで私たちを祝福しておられます。昇天された主ご自身が、今も働いておられるのです。