8/30(日)徳山チャペルの礼拝で、「召天者記念献花」が二鉢、捧げられました。
一つはカランコエ。もう一つはアンスリウム。
これで牧師室にはアンスリウムが3つ。一つは白、一つは赤、一つはこのピンク。
そろそろ植物たちの居場所が手狭になったので、9/1(火)午後に、配置換えを行います。
8/30(日)防府チャペルの礼拝。 入院中の方の手術が成功したことを覚え、祈りが捧げられました。
穏やかな時が流れています。
西教区女性会の季刊誌「はなみずき」の原稿について、読み合わせをいたしました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
9/2 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
9/5 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
9/9 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
9/12 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
9/13 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
8/30(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第14主日 説教
マタイ福音書16章21節-28節 「十字架を見つめて」
水原一郎
① ペトロは直前16章16節で主イエスに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。しかし主イエスが、ご自分は「エルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と語られると、ペトロは主を脇へお連れして言います。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」ペトロは主イエスを愛していました。けれども、このペトロが求めていたのは、苦しむメシアではありませんでした。力あるメシア、勝利するメシア、栄光に満ちたメシアでした。ですからペトロは、主イエスの先行きを守ろうとして、かえって主イエスの進まれる道を拒んでしまったのです。
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② 22節で、主イエスはペトロに、「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく言われます。「人間のこと」とは何でしょうか。それは、「当時の人々が求めているメシアの姿」という意味です。つまり、ペトロが期待したのは、力によって敵を打ち破り、イスラエルに勝利と栄光をもたらすメシアでした。ペトロにとって、メシアとは「苦しまない」方だったのです。しかし主イエスが示されたメシアは、その反対でした。力によって人を従わせるのではなく、ご自身を差し出して人を救う方。栄光への道ではなく、苦しみを引き受けて十字架へ向かう方でした。主イエスは、ご自身がそのような「苦しみを避けない」メシアとして歩まれることを、お示しになったのです。
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③ ですから、ペトロが主イエスを脇へお連れして、「そんなことがあってはなりません」と言ったとき、主イエスは「サタン、引き下がれ」と言われたのです。なぜ主イエスは、ペトロや人々が求めるメシアでなく、「苦しみ」を避けなかったのでしょうか。それは、ご自身が「苦しむこと」が目的だったからではありません。その先に、私たちを救う十字架があったからです。主イエスは、私たちのため十字架へ向かわれたのです。
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④ 私たちは、それぞれの歩みの中で知っています。自分では避けることのできない重荷を、時に負い、負わされることがある、ということを。主イエスも「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われました。これだけならば厳しい言葉です。しかしここで忘れてはならないのは、その十字架は私たちだけで背負う重荷ではないことです。先頭を歩くのは主ご自身です。苦難のメシアは、私たちの罪、痛み、弱さを担われた方です。私たちは、日ごとに自分の十字架を見定め、負うものです。そして礼拝やその日の終わりに、それらをひと時降ろすものです。今日、私たちは、まず主が私たちを見つめ、担っておられることを知るのです。マタイ福音書11章28節が示す通りです。
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⑤ 十字架への道は、ペトロも弟子たちも理解できませんでした。そして私たちも、十分には理解できません。それでも主イエスは、そのような者たちのために十字架への道を進まれました。ご自身が言われた「自分を捨てる」ことを、文字通り実行なさったのです。「自分を捨てる」ことは、私たちには大変なように見えます。もちろん私たちは、自分自身の持ち物を、賜物として誰かと分かち合うことを大切にします。でも、自分は捨てきれませんし、自分の重荷もまた同様です。捨てきれず、担いきれないこともある私たちに、今日の福音が届きます。私たちが自分の十字架を担うことができるのは、私たちが先に主イエスに担われているからです。私たちには理解しきれないことがあっても、担いきれない重荷があっても、主イエスは十字架への道をやめません。私たちを救うため、私たちを担うために、最後まで歩んでくださるのです。


