2014年11月2日日曜日

11/2 礼拝献花、益田チャペル会員作品、メッセージ

 本日の礼拝献花です。召天者記念礼拝として行われた本日の礼拝、
献花もそれに合う形でした。
ユリはキリスト教、白菊は日本。聖餐式を伴う礼拝でした。


こちらは、益田教会の会員の作品です。
 「トロッケンゲビンデ」というものです。
 なんと、全て穀物で出来ている風景作品なのです。

こちらも同上。これは、松の実を始めとする木の実の作品です。
 
 本日も礼拝後、おにぎりと味噌汁の愛餐でした。

 来週も礼拝は、11/9(日)10:45~行われます。
 礼拝の中で、子ども祝福式が行われます。
 どなたでもどうぞご自由にお越しください。

 礼拝メッセージの要旨です。

 

説教要旨】 マタイによる福音書51-12節 
本日は召天者記念礼拝です。私たちは、懐かしい方々を前に見ています。これらの方々はかつて私たちを守り、支えた方々です。年長の肉親はもとより、年少でも動物でも、私たちに純粋さや信頼を教えてくれました。年月の移ろいと共にこれらの方々も年齢を重ね、召されました。既に何かは為し得なくとも「共に居ること」が恵みでした。本日もみ言葉を聴きましょう。

聖書は「幸いの教え」です。「薄い信仰」「喪失」「感情を溜める」「涙」「お人よし」「搾取」「係争中」「非難」の中にある人々に主は幸いを語るのです。主のみ力ならば、これらの方々は、直ぐにその反対の方向に替え得たでしょう。「強い信仰」「蘇生」を始めとする現実的な豊かさ、丈夫さ、安心などが与えられたはずです。けれど主は不思議な力を行使しないのです。

それで、なぜ「幸い」か。2つあります。1つ目。まず良いものが与えられる、の約束です。約束や希望を持つ人生は、張り合いがあります。もっともこの後、偉人、賢人、富める者が増加したという記載はない。実際の所人々の生活や信条は変わらなかったでしょう。変わったこととは、主が共にあるという事柄です。それこそが2つ目の幸いです。「辛い」という字は、十字架の上に立つことです。「幸い」は、自身の十字架と共に主の十字架もある事なのです。

 今読んでいるマタイ福音書は「共にある主」を語ります。そして主が、共にいようと選んだ対象は、凡足るものを持つ者です。聖書は、凡であり、貧を祝福し、世でまた一歩を生きることを促します。かつて、前にある召天者の方々は私たちに寄り添いました。今はみ国で主に寄り添われています。共にある主を想いつつ、召天者を想いつつ、日々を送る群れでありたい。

説教要旨】 マタイによる福音書51-12節 
本日は召天者記念礼拝です。私たちは、懐かしい方々を前に見ています。これらの方々はかつて私たちを守り、支えた方々です。年長の肉親はもとより、年少でも動物でも、私たちに純粋さや信頼を教えてくれました。年月の移ろいと共にこれらの方々も年齢を重ね、召されました。既に何かは為し得なくとも「共に居ること」が恵みでした。本日もみ言葉を聴きましょう。

聖書は「幸いの教え」です。「薄い信仰」「喪失」「感情を溜める」「涙」「お人よし」「搾取」「係争中」「非難」の中にある人々に主は幸いを語るのです。主のみ力ならば、これらの方々は、直ぐにその反対の方向に替え得たでしょう。「強い信仰」「蘇生」を始めとする現実的な豊かさ、丈夫さ、安心などが与えられたはずです。けれど主は不思議な力を行使しないのです。

それで、なぜ「幸い」か。2つあります。1つ目。まず良いものが与えられる、の約束です。約束や希望を持つ人生は、張り合いがあります。もっともこの後、偉人、賢人、富める者が増加したという記載はない。実際の所人々の生活や信条は変わらなかったでしょう。変わったこととは、主が共にあるという事柄です。それこそが2つ目の幸いです。「辛い」という字は、十字架の上に立つことです。「幸い」は、自身の十字架と共に主の十字架もある事なのです。

今読んでいるマタイ福音書は「共にある主」を語ります。そして主が、共にいようと選んだ対象は、凡足るものを持つ者です。聖書は、凡であり、貧を祝福し、世でまた一歩を生きることを促します。かつて、前にある召天者の方々は私たちに寄り添いました。今はみ国で主に寄り添われています。共にある主を想いつつ、召天者を想いつつ、日々を送る群れでありたい。