本日の教会の献花です。枝ぶりの良いものに、黄色と白の花が
赤い教会の絨毯によく映えています。
本日も礼拝が行われ、礼拝後には中華スープとワカメおにぎりの
愛さんを頂きました。
礼拝は来週も行われます。
2/1(日) 10:45~
どなたもお越しいただけます。
本日の礼拝説教です。
【説教要旨】 マルコによる福音書1章21-28節
「安息日」とは、主の時代も休息日でした。今日の聖書の言葉を文字通り頂けば、「けがれた霊」の癒しの話です。古代の人は原因不明の病状を「霊」に帰結させました。実際の所は、病の故の言動不良か。彼の言動には自身を複数形「我々」と呼ぶなど、不確かな心象が見受けられます。しかし彼は会堂に居ます。自身の不確かさを思い癒しを願う、彼の心根でしょうか。
彼は「関わらないで」と主に言います。即ち主の教えに「関わる」要素があるということです。主の「声かけ」には、二つの要素があります。まず、神から人、主から彼、上から下に繋がる関係性です。また病者は「ナザレのイエス」と叫びます。主と彼とは面識があったのです。主にとっては、かつて知った者の病なのです。同胞の病、すなわち横の関係性が確立したのです。
そして癒し。主は「悪霊放逐」の言葉を語ります。そもそも当時の時代では、病者それも不明晰な人に近づくことはタブーでした。主はしかし、当時のタブーを破り近づき、語りかけます。そして当時の病の癒し方を用いる。即ち「関わられる」喜びがここに誕生したのです。主は見捨てられた人と向き合い、失われていた関係性を再構築したのです。それが主の「権威」です。
聖書はこの話が「安息日」に起きたと書きます。日にちとしての安息日は、誰にでも来ますね。彼にも来ました。だが彼は「真の安息」を為し得ませんでした。安息日に安息出来ないという不思議な状況を、主は見捨てられません。主は真の安息を与えます。私たちの話です。安息し得ない現実に生きる私たちや同胞の姿を思います。主はその方々に先立ち私たちを安息へと招待しました。この安息に生きる喜びを再認識したい。そして、近しい人へと知らせたい。