裏の雑木林がなくなり、明るくなった礼拝堂と本日の献花です。
雑木林があるころは、聖壇が照らされることはなかったのですが、
このように、献花が照らされています。
本日も、徳山、柳井、防府では礼拝が行われました。
礼拝後には、それぞれのチャペルで愛さんやお茶による交わりが
行われました。
来週は、六日市での合同礼拝となります。
徳山、柳井、防府の方々が、六日市に集います。
徳山、柳井、防府での礼拝はお休みとなりますので、お覚えください。
6/21 10:30 六日市上集会所にて。
本日の説教要旨です。
【マルコによる福音書2章18-22節】
今日、断食とは健康法の一つとされています。それは主に、「自身のための断食」です。しかし元来「断食」とは、自己と他者のための意味を持ちました。食断ちによって自身の生きる意味の確認、自身の食断ちの金銭を他者のために献金するということでした。ルーテル教会では「断食」は未制定ですが、他者への関わりは皆さん覚えておられます。先の震災では「おすそわけ」が為され、四旬節に為す方も居られます。
聖書時代、そもそも断食は、自己抑制と他者への愛の現れを通して、神さまのお姿を覚えるというものでした。しかし主の時代、断食が裁きと自己顕示になってしまいました。「自分たちは断食中、なぜ弟子たちはしないか」と。主の敵対者たちが言おうとする趣旨は、主の監督不行き届きを責めつつ、自身の優位性を強調するものでした。
対する主の返答は、自分たちは断食をし得るが、出来ないというものでした。なぜなら「花婿が共にいる」神さまが全ての人に共に在るのです。主以前のユダヤの神理解は、怒りや憤りの神さまでした。自身を節制し、他者に恵むことで得られる恵みです。しかし主の神理解は恵みの神さまです。自身にも他者にも等しく恵まれるのです。
なぜイエスさまは、当時の宗教者に敵対したのでしょうか。本質を忘れる宗教者への警告です。断食の本質は、神さまの愛を覚え、隣人への愛を行う事です。しかし彼らは断食の事柄にこだわり、他者を責め、自身を誇り、神さまを忘れるのです。私たちには、断食の習慣はありません。断食という習慣をなさっている方は素晴らしいです。それに加えて、私たちは「断食」という、何かを断つ行為以上に覚えたいことがあります。主は命を断ち、その命を私たちに賜う。主が十字架で示した愛を覚えたい。