本日も波は穏やかでした。
7/30 徳山礼拝献花です。
百合の花です。今週は、教会員家族の召天記念日がたくさんありました。
百合は復活の象徴、今週に相応しいお花でした。
変わって牧師室窓のグリーンカーテン。
実は、これはゴーヤでなくウリでした。ウリの実が中央になっています。
昨日、本日ともに益田、六日市、徳山ではそれぞれ礼拝が行われました。
六日市礼拝後には、キューリの牛乳寒天、初めて食べた不思議な味でした。
徳山礼拝後にはドライカレーを頂きました。
8月に入って、聖書の学びは休みとなりますが、今週、来週ともに以下の日程で礼拝が
行われます。
8/1(火)牧師 柳井C
8/5 (土)牧師 厚狭C
8/6(日)11:00 益田 礼拝 徳山の礼拝堂は開けてあります。
いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。
本日の礼拝メッセージは以下の通りです。
【マタイ福音書11章25節-30節】
今日の聖書前段落、この時主はお一人の状況で、かつて回られた町々を思い出します。伝道の不振、既存の宗教者とそれに影響された人々が、まことの神さまの愛を受け入れなかった。主はそれぞれの町を叱り始めるのです。「この町はこうだ、あの町はああだ」と。聖書、それも主の叱責ということですから、背筋を正して読むのですが、見方によってはこれは主の「不平(ぐち)」ともいえる箇所です。一生懸命に活動しても、その働きが報われず、目に見える結果とならない時、主も「人間」として、思わず不平を口にします。
しかしここからが主の真骨頂です。一時は不平を口にするものの、そこから「神さまを賛美」し始め「御心だった」と言われます。思わしくない状況でも、神さまをたたえるのが主です。これは、私たちに「こうしなさい」と言うものではありません。あくまでも主が為されたことです。「うまく、思い通りにならない」ことも「御心」と主は言われるのです。主にとっては、「伝道の不振」も、「既存の宗教者とそれに影響された人々」の存在も「御心」の成就に必要だったのです。その人々が居たからこそ、主は有名な言葉を言われます。
「疲れた者…」の言葉の対象は、何よりも「既存の宗教者」から圧力を受けた人々です。ただ主の招きは、打ちひしがれた人だけを対象とはしません。「柔和と謙遜を学びなさい」と、既存の宗教者への招きも為します。主に、偏りの愛はありません。言葉で招きつつ、主は神さまの「御心」をも念頭に置いていたと察します。それは、「柔和と謙遜を学ぶ」必要のある人々に、自らが「柔和と謙遜」の象徴である十字架に架かるとの「御心」でした。
主は「くびき」という、農業用語を持ち出します。重荷でなく「くびき」が「負い易い」とあります。通常の軛は、引く物と荷とを繋ぐ道具です。「負い易く」するためには、引く者の負担にならないような処置が必要です。「安らぎを得られる」のですし「休ませてあげよう」の言葉が「くびき」の内実です。「信仰」「祈り」「教会」とは、私たちと重荷をつなぐ「くびき」でしょう。それがあるからこそ、この世の重荷を負うことが出来る。そう信じます。