2017年7月2日日曜日

7/1.2 益田の海と徳山礼拝、献花

 7/1の益田小浜の海です。透明です。
 東京の海や砂浜は黒かったと思い出しながら写真を撮りました。
 7/2 徳山礼拝後に牧師室窓に緑のカーテンを設置しました。
 紫陽花、一輪です。花瓶は教会のもの。
本日の献花です。十字架と併せて、写真。

 今週、来週の教会行事は以下の通りとなります。
 いずれの礼拝、集会にも、どなたでもご自由にお集い頂けます。

7/4(火) 15:00 徳山 聖書を学ぶ会。

7/8 (土)13:00 益田 小浜礼拝
      14:00 益田 元町礼拝
      19:30 六日市礼拝

7/9(日)10:45 徳山 礼拝 

下関C、厚狭Cの竹田大地牧師による礼拝です。
 
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお集まりいただけます。

本日礼拝後には、スパゲッティミートソースの愛さんでした。

本日の礼拝のメッセージは以下の通りです。



【マタイ福音書99-13節】
 「宗教」という日本語には、「究極の真理の教え」の意味があるそうです。「宗教」を意味するラテン語には、「神さまと人とを何度でも結ぶ」の意味です。それでは、主の時代の宗教者が「神さまと人とを結びつける」働きをしていたかというと、そうではありませんでした。むしろ、神さまを求める人たちに、越えられないハードルを課していたのです。

マタイという人が収税所に座っていました。座していたマタイは無言です。彼の気持ちを推察することは出来ます。主はそんなマタイの心とも共に在りました。「私に従いなさい」とは、従う心の縁を求めていたマタイが、何よりも求めていた言葉でした。主はマタイの求める心をご存じだったのです。そして、当時の宗教者には為し得なかったことを為して下さった。マタイの心には、ただ感謝のみです。「この方が自分のような嫌われ者にも声をかけて下さった」。

主はマタイの家に向かいます。そこで「徴税人と罪人」も集まり、食事が始まりました。主はファリサイ派の人々にとって、「義人」でした。その「義人」が、「罪びと」と共に食事をするのは異様な光景とファリサイ派には映ったのです。しかし主はファリサイ派に反論します。「神さまは、憐みを求め、いけにえは求めない」とは当時の宗教者への痛烈な皮肉でした。なぜか。彼ら宗教者は、いけにえの半分を自分の懐に入れた。ちなみに徴税人も税金の一部を懐に入れた。そのファリサイ派が徴税人たちを罪人と呼び、批判する愚かさを暗にほのめかしたのでした。

ところでこの聖書の謎は、なぜマタイがすぐに主のみ声に聴き従ったかです。ヒントは、この話が置かれている位置、山上の説教の直ぐ後です。このマタイは主のみ教えとその暖かな人柄に触れて、心が主に傾いた、と告げるのです。神さまが、主を遣わし、聖霊の導きによってこのマタイを弟子にしたのです。それはまた、私たちの姿ではないでしょうか。