2017年12月10日日曜日

12/9.10海と献花と教会 クリスマス動画


 曲は「 simple gift」です。
 徳山C2017年のクリスマスの様子です。

 
  12/9の小浜海岸の様子です。何か海岸の地形が変わったように思えます。
 沖の海流が変化したのでしょうか。
こちらは12/10徳山献花。ポインセチアです。クリスマスカラーが映えています。

 今週、聖書の学びは行われます。
 今週、来週ともに以下の日程で集会、礼拝が行われます。


12/12 (火) 徳山 聖書の学び 15時~16時



 
12/13 (水) 防府出張
12/16 (土) 12:00 益田 クリスマス礼拝
        
         19:30 六日市礼拝

12/17(日)10:45 徳山 礼拝 


いづれの礼拝、集会ともにどなたでもご自由にお集まりいただけます。

本日の礼拝メッセージは以下の通りです。




【マルコ福音書 1111節】
 マルコ福音書1221節には、「律法学者」の衣装そして内心が記載されています。「長い衣を」着て、「やもめの家を食い物に」する。もちろん、全ての律法学者が同じということはなかったでしょう。しかし主の目には当時の宗教者の一部が、そのような成り形で人々の前に居たのです。人目を引くための衣服を進んで着る。そして旧約ルツ記を読めば分かるように、本来は保護され、適切な援助を受ける「やもめ」たち、生活に困難を覚える女性たちを保護するどころか一層苦しめる。それが主の目に映る当時の一部の宗教者たちでした。

 今日の聖書「洗礼者ヨハネ」の、いわば奇抜な衣装と生き方は当時の宗教者へのアンチテーゼ(対照)だったのです。ラクダの毛皮と皮の帯とは、宗教者の衣服への対抗ですし、イナゴと野蜜という粗食は、「やもめの家を食い物」にして安逸をむさぼる宗教者への反論です。「主の道を整えよ」との言葉は、神さまと人との道をつなぐ、執り成す宗教者の本来的役割を意図的に見ない彼らへの注意喚起の言葉なのです。聖書は更に続きを語ります。

 ヨハネは「罪の赦し」としての洗礼を授けていました。この「罪の赦し」というのも、彼ら宗教者の貴重な収入源に他なりませんでした。ヨハネは「赦し」を「無償」で為しました。それも宗教者にとって憤りの源でした。そしてこのヨハネの姿こそ、成長された主に共通することなのです。それでは、私たちにとって「主の道を整える」の意味は何でしょうか。

 言うまでもなく神さま、イエスさまは、人の目には見えない道を通り私たちの所に来て下さいました。そして、私たちの知る一人ひとりの傍にも居て下さいます。道は既に整っているのです。しかし私たちには時に、主が共にある実感が持ち得ない。近しい隣人もただただ困難にあたふたするのみということがあります。私たちに出来ることは、主が共にあるという確信を保ち続けつつ、近しい人を覚えて祈る。そのことに尽きるのでしょう。