本日の小浜海岸は少々の荒れでした。
3/18 徳山礼拝の献花です。会員がお嬢さんを偲びつつ、捧げて下さいました。
3/18 徳山礼拝後、折り紙教室が開かれました。
さくら。牧師室の壁で、一足早く咲いています。花見をせねば。
四旬節第5主日の今日、教会の礼拝ではこういうことがありました。
1 初ばいさんを迎える教会の幼子のために、N姉が証しをしてくれました。
讃美歌237「ああ主のひとみ」を歌い、イエスさまのまなざしが、
そのひとみがこどもたちに向いていることが話されました。
宮沢賢治の「よだかの星」とも重なる話でした。
2 かつてN姉を育てられ、今は御国にあるおじいさまのために、祈りがなされました。 3 礼拝後、周南市内にお住まいの保護司の方が、折り紙を教えて下さいました。
今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。
3/20 火曜日 聖書の学び 15時より
3/24 13時 益田市小浜礼拝
14時 益田教会礼拝
19時 六日市礼拝
3/25 10時45分 徳山礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。
【ヨハネ福音書12章40-50節】
日常生活の中で「叫ぶ」ことは、余程のことが起こった時です。聖書は「主の叫び」から始まります。これは、直前に主の心を「叫び」へと駆り立てる出来事があり、直後の主の言葉こそ「魂の言葉」ということです。誰に向いているのか。ユダヤ教宗教者たちです。他の福音書と同じく、ヨハネ福音書で主は宗教者たちと緊張関係を保っています。と同時に、主としては宗教者たちの心を解きほぐそうと試みておられます。主は、宗教者たちの抱える重荷をご存じであり、重荷ゆえに頑なになっている心を顧みて、何とかしようとされるのです。
しかし宗教者たちは主の心を汲みません。むしろこの福音書初頭から主を不審者扱いするのです。祭司を遣わして主を尋問します。しかし主は遣わされた人々に神さまの愛を伝えます。当時一般的な「裁きの神」でなく、「愛の神」をお語りになったのです。それ故、「議員の中に主を信じる者」が出てきます。しかし「外聞や体面を恐れ、主を信じない」のです。当時は三位一体信仰でなく、唯一神への帰属が求められました。主を信じることは異端と見做されていた、だから「主を信じることは、神さまを信じること」と叫ばれたのです。
続けての主の言葉に宗教者を責める要素はありません。「守らない者でも裁かない」と。「守らない」とは「守る意思がない」その者でも良いのです。彼らは一度「聞く」のですが、色々と理由を付けて「守らない」のです。一方で「拒み、受容しない」者には厳しい結末が語られます。「守らない」者と「拒む」者との違いは何か。「聞く人々」と「聞かない」人々です。主の言葉を一度でも「聞いた」人々には、主はじっくりと関わりを持ち続けられるのです。
その関りは当時の宗教者はもとより、私たちの家族、近しい友人も同様です。この福音書は一読すると、厳しい二極性に目が留まります。「裁きと救い」「光と闇」など。ただ要点は「囲いの外の羊も導く(10章)」ということなのです。愛を向けられている宗教者は、この後主を十字架に付ける算段を始めます。それも主はご存じでした。それでも主はお言葉を語り、そして復活の日を迎えられます。主の御心から外れる人は、誰もいないのです。