思いを訪問のたびに与えられています。
この後、小浜、元町、六日市で礼拝が行われました。
5/6 徳山礼拝献花です。復活節には百合の花。良く合っています。
復活後第5主日の日曜日、教会の礼拝ではこういうことがありました。1
1 先々々週土曜日、会員宅の愛猫が居なくなりましたが、不明のままです。
「今居る処で、神さまの守りがある」ことが祈られました。
2 朝、K姉から風邪のため休みますという連絡を頂きました。
その方のために祈りがなされました。
3 礼拝式文ファイルが、B5型とA4型とあります。
A4型が大きくて見やすいと評判です。F姉の編集、作成です。
4 礼拝堂の裏手のサクランボが生りに生っています。
子どもたちの食後のおやつになっています。
種はその辺に散らされています。子どもたちは小鳥とし烈な競合をしています。
5 益田、六日市でも、柳井のNPO法人「一粒の麦」支援古紙が集められています。
昨日は私の車に満載でした。
6 六日市Cでは、この春にセカンドキャリアの場が与えられた
佐藤明男牧師による説教が為されました。会員のK兄の義兄になります。
7 徳山Cでは礼拝後、礼拝に出席中の方と懇談、祈りの時が与えられました。
8 徳山Cの愛さんは鰹おにぎり、大根菜おにぎり、味噌汁でした。
今週、来週ともに礼拝、集会は以下の日程で行われます。
5/ 8 火曜日 15時 聖書の学び
5/12 土曜日 13時 益田市小浜礼拝
14時 益田教会礼拝
19時 六日市礼拝
5/13 日曜日 10時45分 徳山礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
本日の礼拝説教要約は以下のとおりです。
【ヨハネ福音書15章11-17節】
友とは有り難く、得難いものであります。旧約聖書の箴言には「鉄は鉄によってみがかれ、人はその友によってみがかれる(箴言27:17)」とあります。これ以外にも友に関する「箴言」つまりことわざが多くありますが、聖書の時代の人々も生きる上で「友」の存在に重きを置いていたことが分かります。「友」とは、第一義的には「人」を表しますが、今日では「人間以外のもの」を表すこともあります。長年生活を共にした「ペット」は、その意味で動物ではあるけれど、同時に「友」として私たちの生活に欠かし得ないものなのでしょう。
今日の聖書で主は「友のために命を捨てる」「あなた方は友」「僕とは呼ばず、友と呼ぶ」とあります。聖書はそもそも、「友」という言葉をどのような趣旨で用いるのか。やはりそれは旧約聖書をひもとく必要があります。神さまと人との関わりで「友」が出てくるのは、神さまとモーセの対話の場面です。ある時モーセは「人がその友と語るように」モーセと語り合っていました。モーセの例でいえば、神はモーセと語ることで、重荷を共に担い、その人生を支える意思を示されたのです。そして今、主は弟子たちに「友」と幾度も呼びかけて下さるのです。
なぜ主は弟子たちを「友」と呼ぶのか。それは、先週も同じことを記しましたが、ここでの弟子たちの状況を見兼ねてのことです。「主の弟子」であることは喜びでもありますが、それが弟子たちに重荷ともなったのです。「友」とは語り合う存在。主はお語りになり、また聞かれるのです。弟子たちは「この」後、逃げてしまいますが、主の言葉は確かに心に納められた。だから「その」後、主のみ言葉に生きる者として生きる者とされたのです。
主がお語りになった書物が福音書ですし、主に聞いて頂くことを祈りと言います。だから「主のみ名によって神に願う」と主はこの聖書で結んでいるのです。主は友として私たちの言葉を聞いています。主のみ名によって祈る、そのことで、神さまが良いと思われることが必ず備えられるのです。主は私たちやその祈りをみがいて下さいます。だから私たちは、み言葉を頂いたものとして、近しい者や出来事を覚えて、祈り続ける者でありたい。