この日は9月の台風で被害を受けた屋根修理の開始日。
足場組みから始まりましたが、折しも柳井では大雨でした。
11/12(火)遠くに富士山を臨みつつ、館山から東京に向かうバス車内です。
千葉県館山市内で活動するボランティア団体(NCC系)に加わり、
復旧支援活動に携わりました。
11/16(土)柳井Cです。屋根は直りました。
無事故とのこと、感謝でした。
11/17(日)徳山Cです。
小田原教会からの客も加わった礼拝でした。
今週、来週の予定は下記の通りです。
11/19 水曜日 19時 六日市礼拝
11/22 金曜日 14時 聖書を学ぶ会 於:徳山
11/23 土曜日 15時 柳井C礼拝
11/24 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
11/27 水曜日 19時 六日市C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【ルカ福音書 20章27-40節】
「論語」を学校で扱い始めた時に、その読み方をまず教わりました。古典には読み方、解し方が長い年月を経て蓄積されているのです。聖書の「黙示文学」と呼ばれるものも然りです。書かれ、語られた背景に立ち、その上で私たちに意味することは何かを共に聴くのです。「復活」も、元来はそのような黙示文学の背景、つまり信仰者の苦しみ、生活の刻苦という前提で、旧約時代に語られたものです。それを否定する「サドカイ派」です。
人の復活とは、旧約では黙示文学(ダニエル/ホセア)に見出せます。信仰者への迫害が甚だしい時代、当座の苦しみと死を越えて人を救いに導く神を預言者たちは黙示で語り、人々はそれを望みとしたのです。転じて主の時代、権益と結びついた世襲制の特権階級、サドカイ派というグループが居ました。彼らは復活を否定。理由は2つ、モーセ五書に未記載であり、語る必要が無かった(彼らの対象は裕福な信仰者)からです。
サドカイ派は主を困らせる意図で質問します。模範解答は「長男」となります。「では次男以下は…」と返し、主に言葉を詰まらさせる目的です。しかし主は、サドカイ派の立場を最大限に尊重しつつ、答えられます。ユダヤの伝統的な死生観(人は死ぬと陰府に行く)を引用し、偉人三者を助けた神さまの偉業を思い、「陰府」以降の復活を語られます。学者たちは主の答えに感銘か皮肉を感じ、これ以上の質問を為すことはないのです。
主はサドカイ派の学問的立ち位置を尊重された。しかし、そもそも主にとっては、復活は学問の一つではありません。復活とは「旧約時代の黙示文学の背景」即ち、苦しみ、寂しさを抱えつつ生きる信仰者の嘆きへの応答でした。この主は時代を越えて私たちにも語られます。アドベントを控えた教会の暦は、終末(やそれに伴う復活)の事柄が語られます。ユダヤの理解では、人は死ぬと陰府に行く。しかし主はそのような陰府をご自分の十字架によって滅ぼされた。終末には恐怖なく、懐かしい人との再会があるのです。