久しぶりにパソコンから写真を掲載することができました。
11/22(日)午後は広島県三原教会に、牧師就任式のために出かけて来ました。
上記は三原教会の正面外です。
長く教会を支えておられる方々との礼拝でした。
11/29 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
「羊と山羊の飼い主」 マタイによる福音書 25: 31~46(新約49ページ)
幼い頃に見た、江戸期の諸資料の記憶が残っています。「からくり絵草子」で、内容は「仏教の地獄」の説明。「悪いことをすると地獄に行く」が心に刻まれたものと思います。だからと言って、その絵草子を見てから真人間になったかというと、そんなことはありませんでした。諸宗教にはいわゆる「死後の世界」を語ることを通して、道徳的教説に結び付けることがあります。今日のこの聖書を、私たちはどのように理解するのか。共に聞きたい。
聖書記載の「最後の審判(31-33)」の当初に行われることは、人の二分化です。基準は「無心の一善(37)/無感心(44)」となります。このような審判が今後いつ開かれるのかは分かりません。ただ、書かれていることから、「無心の一善」への促しが為されることは確かです。教会の歴史でも、私たちの教会でも「全ての人のそばに立つ主のみ姿」を表して来ました。具体的には様々な活動が、かつて為され、現在進行形で為されています。
ただ幾つかの問題が浮かび上がってきます。言うまでもなく私たちは、出会う人全てに聖書通りには成し得ない、単純な二分化は出来ません。メトロノームの如く、日々揺れながら生きるのです。主はその心持ちを抱える私たちに、「羊と山羊」を話して下さったのです。旧約でも評価は不定です。彼らは「自由な動物」であり「捧げ物の動物」でもありました。しかし決定的なのは、両者ともに「罪の担い手(レビ16:10)」とされていたことでした。
聖書の末尾で「永遠の火(41)」「罰(46)」に目が引かれます。ただ、かの日にそのように「整えられる」のは私たちの中の「山羊的な部分」ではないか。むしろ、山羊的な部分を持っているからこそ、主が十字架に架かられ、復活なさり、私たちを日ごとに導かれるのではないか。私たちにはこの主があることを確信し、身近な方々に「主の導き」があることを祈り、関わりたい。羊飼いなる主は、山羊の要素も持つ私たちをも導かれるのですから。