待降節第一主日。飾りつけがなされました。
玄関のリースは手造りです。飾られているものは、
あるご夫婦が散歩の途中で見出された木の実。そして庭の花。
こちらは礼拝堂。躍動感がありますね。
紫の布が踊ります。
柳井と防府、六日市のアドベントの様子は次週にいたします。
12/6 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ 説教 「今こそ来ませ」
待降節に入りました。ラテン語では「アドベントゥス」。主がクリスマスにこの世に、私たちのもとに「来られる」のを覚えます。例年、この日の日課は「主のエルサレム入城」でした。今年は「終末に関する教え」となります。ロバの子に乗られる主のお姿はどことなくユーモラスで親しみやすい、しかしこの「終末の教説」は、主の時代にも起きていた自然災害を思わせるものです。感じ方はそれぞれですが、今年もこの日「主の来臨」を聞きたい。
それでこの「主の来臨」を聴く際に覚えたい事、それは主も、当時の「黙示文学」の形式を用いて語られたことです。特に「天地鳴動」や、その後の再臨(24-27節)、日時は未定ながら不意の主の到来(32-37節)。ここから導き出されるのは、私たちにとっては、喜びでなく緊張の心、安心ではなく不穏な心かと思います。しかし不安大なる当時の人々は、いよいよ「この世が終わって新しい世に導かれる」という希望と期待が抱けたでしょう。
ただこの話の相中に、主としてのお優しさのお気持ちを思います。「いちじくの木」の話を通してです。書かれている通り、「夏の近づきは葉の成長で分かる(28)」。実際、そうですね。ただ主がこの話をなさった時期はいつか。「過越祭…の二日前(14:1)」ですから春。温もりと冷たさ、過ごしやすさと厳しさが同居する時期に、夏の話をなさるのです。この「温冷」は私たちの日常と言えます。そこに告げられる「確かな温かさ」の希望なのです。
或いは「無から有の希望」がここにある。この時期のいちじくは落葉しているのでしょう。ただ「過越祭」を経て本格的な春になると、一斉に芽吹く。今は希望や喜びが見出せなくとも、時の中で見出し得る。私たちはそれを「主の来臨」あるいは「主が共なる約束」に見出すことが出来ます。主のご降誕は、今年は大きな意味を持つ。昨年の如く出来ないことは幾つもあります。しかし、昨年どころか変わらないものがある。それが降誕なのです。