本日は全聖徒の日(召天者記念礼拝)でした。
徳山、柳井、防府、六日市ともに、日時は異になりますが
礼拝の中で信仰の諸先輩方を覚えて祈ることになります。
こちらは柳井C。写真自体は前のものですが、10/31柳井でも
召天者記念礼拝が行われました。
16時 常議員会 大阪
11/8 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
■ 説教 「神の声は死を越える」
マタイによる福音書 5: 1~12 (新約6ページ)
「彼方の世界」は、古人も私たちも想像することしか出来ません。聖書全体では、旧約と新約で様相が変わります。旧約の場合は「陰府に下り、祖先の列に加えられ (創世記)」、「牧歌的な(詩編23編)」風景にも入れられるようです。新約聖書は、そのような旧約の表現を取り入れつつも、基本的には「どこに居ようとも変わらぬ主イエスのみ支え」があります。故人に支えられた私たちは、神さまが今故人を支えていることを覚えたいのです。
聖書は「山上の説教」「至(真)福八端」の教えです。この話を聞く人々の姿は、今日の聖書の直前に「人生の葛藤、困難、病」の渦中とあります。「説教」とは、増して「幸い」とは何か。「教え」を受け入れるどころか、目の前のことに手一杯な人々の姿が浮かびます。「困難、病、葛藤」とは、直面する当座は身を千切られる辛さがあります。「幸いの教え」は、言葉だけでは上滑りする教えでしょう。しかし、人々は主のこの教えを受け止めたのです。
この教えには、誰もが自分や、近しい人の姿を思い浮かべることが出来るかと思います。例えば「心の貧しさ」、誰もが大変な時には他者への配慮など失せてしまうのです。「柔和」、配慮しすぎて損ばかりしている状態を言います。「義の為の迫害」も「正しいことのための行動が実を結ばない」ことです。人間の現実と、そこに被さる主のお言葉と、その後の主のお姿に人々は惹かれたのです。召天された方々の生き方にも重なると思います。
主イエスの生き方は、福音書と呼ばれる聖書に記載されています。一言で言えば「人生の葛藤、困難、病」を担いつつ生きる人を支えた歩みでした。召天者も、その主に支えられた一人でした。「彼方の世界」につき、新約聖書の「1ペトロ」は、「陰府の宣教」という理解を持っています。主が、召された人にもみ言葉を語るという教えです。私たちは、彼方の世界に、暗闇でなく光を思いつつ歩みを重ねたい。葛藤や困難は、知られているのです。