4/10(日)徳山の礼拝堂の写真です(撮影は本日、火曜日)。
先週に続いて、今週も紫色の献花です。
四旬節のさ中、枝の主日礼拝でした。
こちらも、良き香りの水仙が先週に続いての登場となります。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
4/13 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
4/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
4/20 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
4/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカ福音書19:28~40 (新147)
28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。
「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、
まだだれも乗ったことのない子ろばの
つないであるのが見つかる。それを
ほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、
『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
■ 説教 「滅びの場に戻る神さま」
ルカ福音書13章には、「エルサレムのために嘆く」主の姿があります。み言葉に聞こうとしないこの町と指導者を念頭に置いて、「(神に)見捨てられる」「(イエスご自身も)この町には来ない」(13:35)と、主の言い方には厳しさがあります。ただ、その言葉を撤回するかのように、本日の聖書で主は「エルサレム入城」をなさいます。来週が復活祭、本日は「枝の主日/受難主日」です。全ての人に、死からの命を与えるための主のみ姿を聞きたい。
主がエルサレム入城の際に用いたのは「子ロバ(30)」でした。ここに、用いる主の「謙虚さ」と、用いられる子ロバの「非力さ」を見出し得ます。なぜ「謙虚さ」なのか。かつて13章で主が嘆いたのは「エルサレムの高慢さ」でした。その町に主は「見切り」を付ける決意を覆します。身を低くする姿をもって入城なさり、続けて主は「神殿の宮清め(12:45)」を行います。金築ではなく、広くに愛を及ぼす神さまの姿をご自身の姿をもって示されます。
上から見下ろす乗り物(軍馬やチャリオット=戦車)ではなく、目線が同じ乗り物(ロバ)がその謙虚さの象徴で、当時の宗教者との差として示されます。なぜ「ロバ」を用いたのか。乗り物としては相応しいとは言えません。しかし、「非力なもの」「相応しいと思えないもの」を主は用いるのです。用いられ、必要とされることの大切さは、その経験を欠いたときや、未だ得ない時に実感するのでしょう。この二つのことを主は伝えるお気持ちなのです。
主を出迎えた人々の内、その数日後、主に「十字架に付け」られることを願った人は恐らくいたでしょう。その場の雰囲気や空気に、人は弱いものです。イザヤ書は「葦であり燈心(42章)」と語りますが、そのようなものでしょう。しかし主は、そのような人々を見捨てず、重なる目線の立ち位置を示されたのです。主は十字架で一度は死なれました。私たちに近しく、召された方たちも、この主に既に出会っているのです。主の支えを信じて生きたい