4/18(月)徳山チャペルの道路側です。
芝桜は、まだまだ見ごろです。ヤマボウシも新緑をまとっています。
聖壇で、祝福される時を待っています。
祝福された後の写真となります。
献花です。木の十字架が、復活のユリの背後に来ています。
今週、来週の予定は以下の通りとなります。
4/20 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
4/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
4/27 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝
4/30 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
■ ルカ福音書24: 1~12 (新159)
1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
■ 説教 「朝の光を希望にして」
イースター、おめでとうございます。この日私たちは、ルカ福音書を通してみ言葉を聞きたいと思います。遡りますが、主は「放蕩息子のたとえ」で、「父親」の並外れた2つの度量を記します。二つ目は「家を出て兄をなだめる」姿。一つ目は「弟に走り寄る」姿です。目的地に早く着きたい思いが「走らせる」と言えます。ここに、ペトロが主の墓に向かい走っています(12)。主の復活を一刻も早く確かめたいという思いが、ペトロを走らせたのです。
この時のペトロは、空の墓を見て「驚きながら家に帰った(12)」とあります。主は「ご生前」に、ご自身の復活を三度お語りになりました。しかしその「復活信仰」が、弟子たちに浸透していたかは甚だ不明です。女性たちは主の墓に香料を持参(1)したことや、居場所こそ女性たちに明かしていましたが(9) 男性の弟子さんたちが「たわ言(11)」として主の生前の (女性たちの)言葉を流してしまったこと。そこから、復活など無いと思ったのです。
ペトロも「たわ言」と受け止めた一人でしょう。しかし「割り切れない心」を持つものでもありました。「もしかしたら」という思いが、主の墓に向かってペトロを走らせたのです。「まだ遠くにいた」「外にいた」弟や兄に向かい父は動きました。そこには徹底した愛があります。一方ペトロは「割り切れない」「どちら付かず」の心でしたが、それでも走るのです。結果は「空の墓」と「亜麻布(12)」でしたが、それを見たペトロはやがて確信するのです。
イースターは、キリスト教が「キリスト教」として立つ本質的な行事の一つと言えます。その典拠である聖書は、当初のイースターの様子を明け透けに「信じる者は(ほぼ)いなかった」と描きます。しかし、「朝の光に照らされた」から、キリスト教は今日に至るのです。週日は私たち、ペトロのような「割り切れない」不確定要素の多い歩みを求められます。その私たちに、復活の主が今もこれからも近づくことを覚えて、日々を生きたいと思います。