2022年5月10日火曜日

5/7.8 礼拝と献花

 

 5/8(日)徳山チャペルの礼拝堂です。

 この日は、「母の日」を覚え、それぞれのお母様を覚えて祈りました。

 5/8(日)防府チャペルの礼拝堂です。

 世間の暦では連休の最終日、大勢の方と共に礼拝を行えました。

 5/7(土)、さかのぼって柳井の礼拝堂です。

 「立てばシャクヤク、座ればボタン、歩く姿は…」のシャクヤクが献花でした。

 

今週、来週の予定は以下の通りとなります。

5/11 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

5/14  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/15 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

5/18 水曜日 19時 六日市チャペル礼拝

5/21  土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

5/22  日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝      

        15時30分 防府チャペル礼拝

 今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。

■ ヨハネ福音書10:2230 (187)

   Gospel of John10:2230  

22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。

24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

 

25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。

27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

 

29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 説教             「言葉にならない現実を前に」 

「復活節」は「復活」と、過程に思いを向ける時期です。日課が、復活前の箇所から選ばれていることからも分かります。聖書では主が、「神殿奉献記念祭(22)」という祭事にて、「気をもむ(24)」エルサレムのユダヤの「人々/宗教者」に向かい合う場面です。かつて、彼らによっても十字架に送られた主が復活に至ることを通し、「言葉にならない現実」に立つことを余儀なくされる方々や私たちに、主が思いを向けることを聞きたいのです。

 

この祭りは「国威掲揚祭」でした。「旧約続編」のマカバイが、神殿を異邦人から奪還した(B.C165)ことを記念する祭りでした。この時、ユダヤはローマの属州のような現状でした。その中で「英雄」を待望するユダヤの人々の思いが、この祭りの芯にあるのです。しかし、現状変革の願いの一方で、「自分たちは何もできない」。だから「主にその端緒を願う」思いが「気をもませる(24)」との感情に結び付き、「メシア(24)」と呼ばせるのです。

 

ヨハネ福音書は、主とユダヤ教宗教者との、当初からの緊張関係を記します。2章の「宮清め」、5.9章「安息日論争」、7章「罪への傾向」を通し、一線を画する主の姿を見出せます。ユダヤの人々の心中こそ、複雑な思いでしょう。宗教者たちよりも主のほうが決断と実行力に富むのです。宗教者たちこそ、「メシア」と呼ばれる主を前に、恥ずかしい思いでしょう。しかし主は「み言葉に聞く(27)」との姿勢を「気をもむ」人々に示されるのです。

 

現状を変えることを願いつつ、無力や微力さをただ嘆くユダヤの人々こそ、私たちかもしれません。ただ、彼らユダヤの人々と私たちとは決定的に異なることがあります。「主によって知られている(27)」=「関られる」私たちということです。私たちが冒頭の「困難」に直面するとき、常に「祈る=御心に聞く」ことを通してそれを乗り越えたいのです。隣人や、世界の民が同様の状況の時も然りです。祈り、示される行いを勇気をもって実行したい。