6/18 防府チャペルの礼拝堂でした。
珍しい形のユリが、元気に咲いています。
も一つ。長年の懸案だった記念堂の漏水が修繕されました。ご奉仕に感謝です。
六日市チャペルの方が送って下さいました。果たして、これらのメロンは
私の口に入るのか。それとも…5人の人々が食べてしまうのか。
毎年、益田の方も送って下さったことを思い出しています。
6/17 柳井チャペルの礼拝です。
アジサイが捧げられています。この時期の花ですね。
今週、来週の予定は以下の通りです。
6/20 火曜日 19時 六日市チャペル礼拝
6/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝6/25 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
6/27 火曜日 六日市チャペル礼拝
7/1 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
今週の礼拝説教要旨は、以下の通りとなります。
◆ マタイ 9:35~10: 1(新17)
■ 説教 「あなたを呼ぶ声」
主が人々を「飼い主のいない羊(35)」と見ています。主の視線の原型は、旧約のエゼキエル34章、王上22:17に見出せます。そこには、指導者が役割を果たさず、民が流浪し、混乱している状況が記されています。主が直視したのも、この状況でした。時の宗教指導者層に対し、主とマタイ福音書は後に強い表現を用いますが(23章)、ここでの主は、責めることより、慰め。「羊たち」を顧みる視点を示します。それでは、どのような視点なのか。
主イエスは「町や村を残らず回」ります。「人の住まう」豊かな村、貧しい村。多い町、少ない町。そして「病める方々の村」。そこで「み国の福音(エウ アンゲリオン)」を教えました。福音とは、既に単語となっていますが、「良いことが訪れる」、「神の国の到来」でした。それは、金権的な勧めでも、二者択一な裁きでもありません。「神さまが、あなた方に近づく」との教えは、この時代は斬新なもの、「打ちひしがれる」人々に喜ばれたのです。まさに「福音」でした。
「深く憐れまれた(37)」とは、断腸の思いと訳しうる言葉です。そこで主イエスは、弟子たちを組にして(マルコ6:7)各所に遣わします。この弟子たちは、背景が特徴的です。漁師4名、大工、政治活動家。徴税人、会計士…。ここには「教え」だけではなく、現実的な支援、知恵の分かち合いもあったと察せます。明らかなのは、病癒しの権能(1)があることです。「悪霊への権能」については、「古代人の理解」と、一言で切り離せないのです。
病とは、旧約では神さまに背いた罰(出エジ9)として、新約でも(神の家来としての)悪霊の仕業(マタ4:24)と理解されていました。しかし主は、病と、神さまの怒りとを結びません。むしろ、病に心配、配慮をもって関わるご自身を通し、神さまを「愛の方」として再解釈します。対話を通して、神さまの怒りではなく、自己責任に帰すのでもなく、愛を告げたのです。「飼い主」であり、迷える羊を導く主イエスを覚えたい。賜物を各所で、用いたい。