7/25(土)柳井チャペル。
外に立っていると、顔が日焼けするほどの暑さ。
今週から入院される教会員を覚えて、祈りが捧げられました。
これは朝9時くらいの礼拝堂。
「ワンピース新幹線」。あのマンガ、まだ続いていたということが驚きです。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
7/29 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
8/1 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
8/5 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
8/8 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
8/9 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
7/26(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第7主日 説教
マタイ福音書13章31節-33節 「小ささの中の大きさ」
水原一郎
① 主イエスは言われました。「天の国はからし種に似ている」と。からし種は当時知られていた種の中でも、最も小さな種の一つでした。指先に乗せれば見失いそうになるほどです。しかし主は、その小ささをもって天の国を語られます。人々は天の国と聞けば、力強い王国を思い描いていました。目に見える勝利、大きな変化、誰もが認める栄光です。しかし彼らの前に立っていたのは、ガリラヤの片隅で語る一人の教師でした。弟子たちも決して力ある人々ではありませんでした。あまりにも小さい。けれども主は言われるのです。「天の国とは、まさにこのようなところから始まるのだ」と。
② 続いて主はパン種のたとえを語られます。わずかなパン種が三サトンもの粉全体を膨らませる。その変化は外からは見えません。しかし見えないところで確実に広がっていきます。天の国も同じです。私たちは目に見える結果によって神の働きを判断したくなります。しかし神はしばしば、私たちの目に見えないところで働かれるお方です。御言葉を通して、聖霊によって、しかも私たちが気づくことは少ないかもしれませんが、人の心の深いところに触れられるのです。沈黙は不在ではありません。小ささは無力ではありません。天の国は、人間が支える事業ではなく、神ご自身の御業なのです。
③ 私たちは人生の中で、この「小ささ」に失望することがあります。自分の働きは、思うほど「実り」を生まない。祈りは答えられない。日々の歩みも劇的には変わらない。しかし振り返ってみると、小さな種が大きく育っていたことに気づかされることがあります。列王記上 3章 7節。「取るに足りない」と語るソロモンの言葉を聴いて、懐かしく思い出すことがありあす。エレミヤ書1章5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から知っていた」という御言葉を大切にしています。この言葉に出会った当時は、この御言葉がこれからの人生にどのような意味を持つのか分かりませんでした。しかし振り返れば、その言葉はその後の歩みの中で、折に触れて私を支え続けてきました。迷う時も、力を失う時も、その御言葉は私の内に残り続けたのです。それは、御言葉が私の中に根を張ったと言えることです。小さな種のように蒔かれた一つの御言葉が、長い年月をかけて働き続けてきた。天の国は、しばしばそのように働くのです。だから主は、目に見える大きさではなく、小さく始まる神の働きを見よと言われるのです。
④ この天の国の姿は、十字架において最もはっきり示されました。十字架は人の目には敗北でした。しかしその敗北のただ中で、神は決定的な救いの業を成し遂げられました。拒まれ、捨てられ、力なく見えたその出来事が、罪の赦しと復活の命への道となったのです。十字架という最も小さく見える出来事の中に、世界を救う神の力が隠されていました。神は、小ささと弱さを通して働かれる。だから今、あなたの信仰が小さく見えても、あなた自身が頼りなく思えても、それは神の働きの妨げにはなりません。
⑤ 日々の歩みがからし種のような小さいものであっても、十分です。なぜなら主語は常に神だからです。神が始め、神が育て、神が完成させる。私たちはその働きの中に置かれ、生かされています。この社会では成果が問われ、結果が評価されます。しかし神はあなたを成果で測られません。神はすでにキリストにおいてあなたを受け入れておられる。だから今日も私たちは、自分の働きに頼るのではなく、神の働きに身を委ねるのです。天の国は、小さく始まる。しかし終わりまで神ご自身の手の中にあります。



