9/5(土)柳井礼拝所。
献花にはひまわり。もうしばらく、残暑は続くのです。
めずらしい箇所に朝の光が当っていたので、撮影。
一見するまでもなく中央は雑草ですし、良く見ても雑草ですが。
その周囲には開花を控えたコスモス。
どうしてこう、自分の成果を誇ってしまうのでしょうか。
45リットル詰め詰めで5袋半。
空の星ではなく、見えてはいけない星。別名軽度の熱中症。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
9/9 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
9/12 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
9/16 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
9/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
9/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
9/6(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第7主日 説教
マタイ福音書18章15節-20節 「主は 諦めない」
水原一郎
① マタイ福音書18章15節「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。「あなたに対する罪」という言葉の元々の意味は「信仰を無くさせるような言葉、行い」です。ただ、もう少し広い意味では、自分自身に対する「心痛むこと」「残念なこと」と言えるでしょう。私たちが日々、週日に置かれている現実です。ただ、今日の聖書の結論は、その誰かを裁くことではありません。誰かの「小ささ」は、その人の「小ささ」として受け止め、軽んじないことです。私たちは、そのような相手に対しての感情は複雑か良くありません。しかし、その人を大切な人として見つめる主の姿を見ることです。
② しかし、まず言われるのは「一対一で向かい合うこと」です。いうまでもなく、これは簡単ではありません。相手に対して、「自分に対する罪や過ち」について語ることは、慎重になります。私たちは傷つきます。腹も立ちます。失望もします。しかし語った相手は、それが「日常」「気にしないで出た言葉」なのです。だから本当は、「もう関わりたくない」「放っておこう」と思います。しかし主イエスはまず一対一で話しなさいと言われます。「兄弟を得るため」です。しかし私たちには、そのような愛も忍耐も十分にはありません。私たちは取り戻すより諦めることが得意です。赦すより切り捨てることが得意です。
③ しかし主イエスは、一人で抱え込めとは言われませんでした。聞かなければ二人、三人で。それでも聞かなければ教会へ。「教会」とはここでは、「集められた人々」という意味です。主イエスは、「罪を犯す人」の心を取り戻す働きを、その共同体全体に委ねられたのです。そして18節以降を見ると、「二人または三人がいるところに、私もいる」と言われます。人それぞれは、欠けがあります。弱い人、頑固な人もいます。私たち自身も、その一人です。聖書は「その人を正しなさい」ではなく、「兄弟を得る」と。つまり「関係を断絶すること」ではなく、保ち続けることを促しているのです。
④ 私たちは誰かの小ささには、よく気づきます。東京にいる親族は、昨年から病気を患い、今年80歳になります。2月、6月と、会議に合わせて親族に会ってきました。以前は頼もしく感じていた親族が、今は判断力や記憶力が弱くなり、お金のことばかり気にしているように見える。その姿に寂しさを覚え、どこかで親族を軽んじる思いが自分の中にあることにも気づかされました。しかし、それだけではありませんでした。私は親族が変わってしまったことを受け入れられず、「親族には親族であってほしい。以前のままでいてほしい」と願っていたと思います。けれど今は、関係を諦めない。今のつながりを保つ。そう思うようになりました。親族との関係は、今日の聖書の「兄弟」とは違います。しかし、「もういい」と関係を切るのではなく、その人とのつながりを保とうとする。そのことを、今日の「兄弟を得る」という主イエスの言葉と重ねて考えています。
⑤ 主イエスの愛は、言葉だけではありませんでした。主イエスは失われた者を取り戻すために十字架へ向かわれました。神から離れていた私たちを、再び神のもとへ連れ戻すために、ご自身の命を与えられました。私たちが主を求めたからではありません。私たちがまだ罪人であった時に、主は私たちを諦めなかったのです。今日の福音は、「もっと頑張って人を愛しなさい」ということではありません。まず主が私たちを諦めなかった、ということです。その主イエスは今日も、失われた者を招き続けておられます。





