9/30(水)六日市のコスモス。
言うことが無いほど綺麗な秋の花。
10/4(日)徳山礼拝堂。
この日は礼拝後、記念会が行われました。
10/4(日)防府礼拝堂。 月に一度の聖餐式。来られない方々をも祈りに覚え、礼拝が行われました。
今週以降の行事は、以下のとおりです。
いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。
10/7 水曜日 17時 六日市チャペル
10/10 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝
15時30分 防府チャペル 礼拝
10/14 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝
10/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝
10/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び
10時45分 徳山チャペル礼拝
15時30分 防府チャペル礼拝
10/4(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。
聖霊降臨後第19主日 説教
マタイ福音書21章33節-44節 「神はあきらめない」
水原一郎
① 主イエスは、ぶどう園のたとえを語られました。主人は、土地を貸しただけではありません。垣を巡らし、絞り場(酒ぶね)を掘り、見張りの塔を建て、ぶどう園を整えました。整えられたぶどう園として、農夫たちに渡されたのです。この姿は、イザヤ書五章の「ぶどう畑の歌」を思い起こさせます。神は、御自分の民を愛し、整え、豊かな実りを願いました。このぶどう園のたとえ話は、「祭司長、長老たち(マタイ21:23)」に向けられていると考えています。ここで主イエスは、神の備えを彼らに向けて語ります。そして、託された場所の中で「実り」を収穫することを、彼ら祭司長たちに求めるのです。
② ここでいう「実り」とは、神から預けられたユダヤの人々を、み言葉によって導き、その心を支えることになります。しかし、「祭司長、長老たち」の生き方はどうだったか。それが、ぶどう園を任された農夫たちの姿に現されます。農夫たちは、主人の思いを受け止めませんでした。収穫の時、主人が遣わした僕を捕まえ、殺しました。これは、直近では「洗礼者ヨハネ(21:25)」をたとえで現わしています。しかし主人は、農夫たちを「あきらめない」のです。主人は一人息子を送ります。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」この一言には、なお人を信じようとする神の願いが込められています。しかし農夫たちは、その息子まで園の外へ追い出し、殺してしまいました。主イエスは、このたとえによって、ご自分が十字架へ向かわれることを語っておられるのです。
③ 主イエスは続けて、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と語られます。元々は詩編の言葉ですが、主イエスはこの詩編をご自身に当てはめられます。先にたとえで主イエスは、「祭司長、長老たち」によって自分は「退けられる」ことになると言われました。しかし詩編では、人が捨てた石を、神は建物全体を支える土台とされたと語ります。主イエスは、彼ら祭司長たちに替わり、ご自身の十字架と復活によって、全ての人をみ言葉によって養い、ご自分のもとへと招かれるのです。
④ 元々はこの話は、「祭司長、長老」に向けられていました。たとえ話で、ぶどう園の農夫たちに求められたのは、ぶどうを収穫し、主人に返すことでした。季節が廻り来て、収穫されたぶどうに向かい合うこと。日ごとに収穫し、それを絞り、ぶどう酒にすること。目の前のお世話に、働きに、心を向けることなのです。これは、私たちとの接点が無いわけではありません。「神から託されたものを、どのように向き合っているか」という点です。私たちには、み言葉が託されています。また、それぞれの務めや、家族、友人、教会の仲間など、隣人との関わりも託されています。私たちにとって、託された人に心を向け、その声を聴き、必要なときに支えることは、神の恵みに応える実りの一つです。
⑤ しかし、私たちは「目の前のお世話」に十分に取り組めないことがあります。隣人の声を聴きそこない、神の招きに振り向けないことがあるのです。ちょうど、たとえ話の中で農夫たちが主人の「僕たち」の声に耳を傾けなかったようなことが、残念なことに起きてしまうのです。それでも神は、拒まれた「一人息子」を、私たちの心に据える「親石」として下さいました。そして今、御子の十字架と復活を通して、私たちの心には確かにこの「親石」が与えられているのです。主イエスが、今も教会を支え、私たちを神のもとへ招き、隣人に心を向ける者として遣わしてくださいます。み言葉に支えられ、託された人々を大切にしながら、新しい一週間を歩んでまいりましょう。




