2026年10月13日火曜日

10/10柳井、10/11防府、10/12徳佐、10/13徳山

 

 10/13(火)徳山は今(15:12現在)小雨が降っています。

 しかし徳山の礼拝堂は、採光がよく考えられています。

 10/12(月・祝)徳佐というところのリンゴ園に出かけてきました。

 今は「ふじ」と「名月」を頂きました。

 10/11(日)防府礼拝所。

 天候次第ですが、今週はもう一度防府に出かけます。10月の外作業のため。

 10/10(土)柳井礼拝所。

 近隣の引退教職の牧師、また少々遠方にお住いの教会員が集われました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。お待ちしていますね。


10/14水曜日 17時 六日市チャペル  

10/17 土曜日 15時 柳井チャペル 礼拝 

10/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル 礼拝

       15時30分 防府チャペル 礼拝

10/21 水曜日 17時 六日市チャペル 礼拝 

10/24 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

10/25 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

10/11(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

聖霊降臨後第20主日 説教 

マタイ福音書22章1節-14節 「用意十分」

水原一郎

① 主イエスは「王子の婚宴のたとえ」を語られました。王は突然、思いついたように人々を呼び集めたのではありません。婚宴の準備を整え、食事を用意し、僕たちを遣わして招きました。ここには前章のぶどう園のたとえと同じ神のお姿があります。ぶどう園も主人が丁寧に造りました。婚宴も王が心を尽くして備えました。どちらも、神の備えから始まっています。しかし招かれた人々は、それぞれの理由で招きを退けました。畑へ行く者、商売へ向かう者、さらには王の僕たちを捕らえ、辱め、殺す者まで現れます。神は備えて下さいました。しかし、人はその招きを受け取ろうとしないのです。


② 前章でもここでも、人々は主人の僕を殺しました。そこには、かつて殺害された預言者たち、そして十字架へ向かわれる主イエスご自身のお姿が重ねられています。そして今回は、「殺害」に対する王の怒りが語られます。「軍隊を送り、その人殺したちを滅ぼし、その町を焼き払った」とあります。この言葉は厳しく聞こえます。話の聞き手が「祭司長」であることを念頭に置いています。主イエスは彼らに、「厳しい旧約聖書の神」を語るのです。ここまでは「怒りの神」です。しかし、ここからが「愛の神」です。王は、婚宴の喜びの食卓を中止しません。招きを取り消しません。「出会う者を皆招いて来なさい」と僕たちを送り続けます。神は、当初招いた人々から断られても、救いの御業をやめられる方ではありません。裁きの後にもなお、招きを続けられる方なのです。


③ 私自身の歩みを振り返ってみても、後になって初めて「神が備えて下さった」と思えることがいくつもあります。その時は無我夢中ですし、後先も考えられません。自分に務まるのだろうかという不安しかありませんでした。しかし振り返ると、その務めの中でしか出会えなかった方々がおられ、その時にこそ、学べたことがありました。婚宴も同じです。王は人を招き、神の前に立つため必要なものまでも備えてくださるのです。


④ 「神の備え」は、続く話に書かれています。王は、婚宴の場で礼服を着ていない人を一人見出しました。ここで断っておくことは、突然招かれた人が、礼服など持っているはずがありません。当時は、このような客のために主人が礼服を用意したと言われます。受付において、自分のための貸衣装を受け取るようなものです。つまり、この人は礼服を持っていなかったのではなく、備えられていた礼服を受けなかったのです。私たちもまた、神が備えてくださる恵みより、自分の力や経験、自分の正しさに頼ろうとするときがあります。しかし神は、私たちが自分で救いを整えることを求めておられるのではありません。神が備えてくださったものを、信頼して受け取るよう招くのです。


⑤ 最後に主イエスは、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と語られます。この言葉を聞くと、不安になる人もいるでしょう。しかし、このたとえ全体が語ることは、神の招き、また神の備えということなのです。話では、婚宴も、招きも、僕たちも、礼服も、すべて神が備えてくださいました。そして、その備えの中心におられるのが、十字架と復活を経て下さったキリストです。私たちに与えられる礼服とは、自分の正しさではありません。キリストご自身です。だから私たちは、自分が十分な者になってから神のもとへ行くのではありません。不安がなくなってから歩き始めるのでもありません。私たちの中身はそのままでも、「キリストを着て」歩むのです。 すべてを備えてくださる主が、今日も私たちを「さあ、すべて用意ができています」と招いておられるからです。