2026年1月6日火曜日

1/3柳井、1/4防府、1/6徳山、1/6山口・島根の県境

 

1/6(火)徳山チャペルの朝。

十字架と花台に朝日が差し込むこの瞬間が好きです。

1/4(日)防府チャペルの礼拝前。

礼拝後にはおぜんざいを頂きました。

1/3(土)柳井チャペルの礼拝前。

聖餐式の用意が整えられています。

こちらは、「youtube」の「アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信」。
アイ・キャン 錦町県境 ライブ配信
1/6(火)9:30頃の峠道。雪は残っていますが、道路は快適。
明日、この道を通って六日市に行くことになります。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

1/7 水曜日 16時 六日市チャペル礼拝 

1/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

1/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/14 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

1/17 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

1/18 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

1/4(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


顕現主日 説教 

マタイ福音書2章1節-12節 「神が下さる贈りもの?」

水原一郎

① 今日は顕現主日です。占星術の学者たちが幼子イエスに贈り物を捧げた出来事を覚えます。けれど私たちは、人が主イエスに贈ったもの以上に、神さまが私たちに贈ってくださったものに目を向けたいと思います。主イエスご自身が、神さまの贈り物です。


② 占星術の学者たちの贈り物には、象徴的な意味が見出せます。まず「黄金」。列王記上102節には、シェバの女王がソロモン王に多くの黄金を贈ったと記されています。そこから、黄金を王の象徴と見ることができます。しかし、主イエスは王宮ではなく、ルカ福音書では飼い葉桶、マタイ福音書ではベツレヘムの家におられました。その生涯も、王座とは無縁でした。人々が生きる場所に生きる方。それが主イエスでした。


③ 次に「乳香」。乳香はレビ記215節で、神さまへの供え物として用いられました。そこから、乳香は「礼拝を捧げるもの」と「神さまを示すしるし」と見ることが出来ます。けれど主イエスは、「礼拝の場」である会堂や神殿に留まりませんでした。「神さま」としてのしるしを誇りもしませんでした。むしろ神殿、会堂の外に追いやられた罪人や徴税人と共に過ごしました。神さまから遠ざけられた人々に、神さまの愛を伝えたのです。さらに、マタイ23章では、礼拝を特権化するファリサイ派を厳しく批判しています。主イエスは、祈る人々にも、祈ることが出来ない人々のもとに身を置いた方でした。


④ 最後に「没薬」です。没薬は防腐剤や薬として用いられ、ヨハネ19章では主イエスの埋葬の場面に登場します。死の象徴と見ることが出来ます。ここでの学者の贈り物には、主イエスがやがて十字架の死に向かうことが示唆されています。クリスマスは主イエスの誕生を祝いますが、やがて四旬節、受難週と進み、死に至る道へと続きます。人々はイエスに期待し、やがて裏切りました。誰もが「終わった」と思った十字架の死――しかし、神さまはその先に復活と永遠の命を用意しておられました。なぜか。それは全て「主イエスを私たちと共に居らせるため」のことでした。


 黄金、乳香、没薬――学者たちは、「これこそふさわしい」と信じて贈り物を携えてきました。幼子イエスへの敬意がありました。しかし同時に、そこには人間の期待も込められていたことでしょう。王であってほしい。神らしくあってほしい。救い主として、分かりやすい力を示してほしい。けれど主イエスは、人が思い描いた姿のままには現れませんでした。目立つ場所ではなく、静かな家におられ、力を誇ることなく、人々の生活の中を歩まれました。顕現とは、「期待どおりの神が示された」という出来事ではありません。むしろ、「人の期待を超えた仕方で、神がご自身を現された」出来事でした。


 私たちも新しい年の初めに、それぞれの願いを思い描きます。こうなって欲しい、これだけは守られたい。或いは、大きな願いはなくても、日常が穏やかに続いてほしいと願います。しかし現実の歩みは、私たちの思い描いた通りに進まないことがあります。予定が崩れ、努力が報われないと感じる時、私たちは「神はどこにおられるのか」と問いかけます。そのとき思い起こしたいのが、聖書の言葉です。「私は植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」。博士たちは贈り物を携えて旅をしました。しかし、旅路を導かれたのは神さまご自身でした。私たちもまた、自分にできることをしながら、結果や成長を神さまに委ね、この一年を過ごしましょう。





2025年12月30日火曜日

12/17記事修正、12/26徳山、12/27柳井、12/28防府、

 初めに、12/17六日市礼拝の記載の記事を一部修正いたしました。


こちらは、12/28(日)防府礼拝所。

ポインセチアはほぼ一カ月、用いられました。

こちらは、12/27(土)柳井礼拝所。

風が強い一日でしたが、本年最後の主日礼拝がこちらでも行われました。

これは、12/26(金)徳山礼拝所の玄関から外。

良く見ると、雪が舞っています。徳山でも初雪。

早朝には、車にうっすらと積もっていました。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

12/31 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です。

1/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

1/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

1/7 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 集う形の礼拝を予定しています。

1/10 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

1/11 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/28(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

降誕後主日 説教 

マタイ福音書2章13節-23節 「神は泣くもののそばに」

水原一郎

① 主イエスの誕生を私たちは祝い、クリスマスの礼拝を行いました。今週、主イエスの誕生の次第が描かれた福音書の続きを読むことになります。マタイ213節からの物語には、私たちの心を刺すような出来事が記されています。ヨセフとマリア、そして幼子イエスは、ヘロデ王の怒りから逃れてエジプトに避難します。主の天使が夢でヨセフに告げたからです。ヨセフは迷わず、夜のうちに家族を連れて出発しました。

 

② 描かれている内容は後に触れます。今日はまず、その内容を受けたマタイの引用である「エレミヤ書」に触れたいと思います。この出来事は、エレミヤ書31章からの引用です。エレミヤの時代、バビロンの軍隊がユダヤに侵入し、人々を自国に連れ去ったということがありました。エレミヤは、ラマという場所にいた親たちの嘆きに「ラケル」なる人物も泣いていると言います。このラケルは既に地上の命を終えた人物で、伝説の人物ヤコブの妻でした。この時、エレミヤが意図していたことは「子どもを無くした親」への言葉かけでした。何を語るのか、伝えるのか。エレミヤは親たちに、①ラケルの涙を ②不意の死を遂げた子どもたちをラケルが迎えること ③親たちへの共感 を伝えるのです。エレミヤ書のその記載を、福音書を描いたマタイは告げるのです。

 

③ 記載されている記事は、悲しい出来事です。ヘロデは、自分が嘲られたと知り、怒り、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子をすべて殺すよう命じたのです。これは、歴史の中の事実として確認された出来事ではありません。が、ローマ属州の大王に昇り詰めるまでに、実際に残忍な粛清を繰り返していたヘロデの性格から、十分にあり得たことです。ここで、私たちは問いを突きつけられます。 なぜ、主イエスの命だけが助かり、なぜ、他の子どもたちは見殺しにされねばならなかったのか。主イエスの命を守るために、他の命が犠牲にされたようにさえ思えるのです。

 

④ 主イエスを連れて逃げたヨセフとマリアにすれば、占星術の学者たちを通した天使のお告げに従っただけということです。進言した占星術の学者たちにすれば、お告げを述べただけなのです。この二つの出来事が、ヘロデの猜疑心を煽り、結果として理不尽に直面したのが「ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子」とその家族でした。しかし、マタイは、この子どもたちの死を「なかったこと」としては書きませんでした。大昔に生きたラケルが、今この時代の人とも一緒に泣いているマタイはそう語るのです。

 

⑤ そして、私たちはこう信じます。救われた幼子主イエスは、いつか命を差し出すために、生き残ったと。救われた主イエスは、後に十字架につきました。主イエスの死は、後のち、すべての者のために、死に打ち勝つ命をもたらすものでした。このとき失われた子どもたちは、主イエスの十字架の死の中で、主イエスと出会い、主イエスに受けとめられたのです。主イエスは全ての者の死を引き受ける者として、守られたのです。

 

⑥ 私たちの周りにも、理由を見出せない苦しみがあります。命が理不尽に奪われることがあります。しかし、神はその涙を見ておられます。「なかったこと」として忘れることはなさいません。だから今、私たちは、このように信じます。「主は泣く者と共におられる」と。十字架と復活の主イエスが、痛みのただ中で、今も生きておられるのです。


2025年12月23日火曜日

12/24予告、12/17六日市クリスマス、12/20柳井クリスマス、12/23徳山の朝

本年の クリスマスの行事は以下のとおりとなります。

 12/24(水)19:30  徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝

 それぞれ、どうぞご予定に入れて頂ければ幸いです。


 こちらは12/17(水)六日市チャペルのクリスマス礼拝直前。

 「自治会の集会所」で礼拝を行っています。

 使わせていただけるご厚意に感謝です。

 こちらは12/20(土)柳井チャペルのクリスマス礼拝直前。

 献金箱(黒い箱)の手前には、教会員による祝会のお持ち帰りお菓子。

 こちらも感謝です。

 徳山チャペル、防府チャペルのクリスマスもそれぞれ、

 教会員によるご奉仕に感謝するひと時でした。

 クリスマスが先で、クリスマス・イブが後。いよいよ明日です!

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

12/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です。

12/24 水曜日 19時30分 徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝 

12/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

12/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝

12/31 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 週報による家庭礼拝となります。

           集う形の礼拝は、1/7(水)を予定しています。

1/3 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

1/4 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/21(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

待降節第4主日(クリスマス主日) 説教 

マタイ福音書118-25節 「愛の決断が、クリスマスへ」

水原一郎

 今日、4本目のろうそくに火がともりました。アドベントの最後のろうそく、それは「愛」を表しています。けれどこの「愛」は、温かくて優しいだけの愛ではありません。時に、痛みを引き受ける愛、決断を迫る愛です。今日の聖書には、その愛を生きた一人の人ヨセフの姿が描かれています。クリスマスの物語は、彼の苦悩の中から始まります。


 マタイ福音書は、イエスに「インマヌエル(神が共にいる)」との名を与えます。これは、イザヤ書からの引用です。イザヤの時代、国が滅びようとする中で、神は「一人の男の子が生まれる」と告げられました。その名はインマヌエル「神が共にいる」という約束の象徴です。マタイはその古い預言を、イエスの誕生に重ねました。長い沈黙と不安の中で、神は再び語られる。しかも、力や栄光のかたちではなく、赤ん坊として――人と共におられる方として。けれども、その名前を聞く前のヨセフは、心が揺れていました。


 なぜか。主イエスが生まれる10か月前、ヨセフはその「神が共におられる」という約束を問い、問い続けていたのです。婚約者マリアが、身ごもっていたのです。それも自分の子ではなかったのです。律法に従えば、マリアは不貞の女として裁かれ、石打ちにされることもあり得ました。「神が共にある」そのことは、人生の歩みの中で受け入れられない時が来るのです。ヨセフがその代表です。ヨセフは「正しい人」でした。だからこそ苦しみました。律法を守る正しさは公に縁を切ることです。それはすなわち、マリアの死を意味します。ヨセフは静かに思いめぐらします。彼が選んだのは、「密かに縁を切る」こと――マリアを守るために、自分が傷を負う道でした。「理由を示さずの離縁」は禁じられていました。あえてその道を選ぶことで、ヨセフは非難を自身に集めることを決断したのです。その「愛の決断が、クリスマス」を生むことになったのです。


 その夜、ヨセフの夢に御使いが現れます。「ダビデの子ヨセフよ。恐れずマリアを妻として迎えなさい」。その言葉が、ヨセフ自身にどのように働いたのか、思いまでは書かれていません。けれど、その選択の中にこそ、「インマヌエル」の約束が実現していたのです。ヨセフが決断した場所はナザレでした。ルカ福音書が語ることによれば、その場所から神は、ヨセフとマリアをベツレヘムまで導きました。ナザレの会堂や人々の眼差しから神は、二人を逃れさせたのです。神は、ヨセフの苦悩を遠くから眺めていたのではありません。ヨセフが恥を引き受け、恐れの中で愛を選んだその場所に、「共に」おられました。インマヌエルそれは神の独り言ではなく、現実の中に働く愛の力です。神が共におられるとは、全てが順調に進むという意味ではありません。むしろ、理解できない現実のただ中で、「なお愛そう」とする者に寄り添う力です。神は、私たちが苦しむ時、黙ってその傍に立たれる方です。ヨセフの沈黙の中に、その神の沈黙がありました。


 今年のクリスマス、私たちもまた、ヨセフのように生きたいと思います。すべてを理解できなくても、恐れの中でも、愛を選ぶ者でありたいのです。家庭の中で、職場で、教会で、誰かのために痛みを引き受ける時そこに「神が共におられる」。それがインマヌエルの約束です。そして、約束と共に神さまは、決断に伴う良い道を備えて下さいます。クリスマスの光は、遠い夜空に輝く星ではありません。私たちが「愛することをやめない」と決断する、その心の中に灯ります。その光があなたと共にありますように。


 

2025年12月16日火曜日

12/10六日市の初冬、12/11西宮教会、12/13柳井、12/14ポインセチア成功!、12/15防府の水仙

   本年の クリスマスの行事は以下のとおりとなります。

 12/17(水)14:00~ 六日市チャペル クリスマス礼拝

 12/20(土)15:00~ 柳井チャペル クリスマス礼拝

 12/21(日)10:45~ 徳山チャペル クリスマス礼拝

       15:30  防府チャペル クリスマス礼拝

 12/24(水)19:30  徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝

 それぞれ、どうぞご予定に入れて頂ければ幸いです。


 12/10(水)六日市礼拝所の礼拝前、いかにも「初冬」の写真でした。
柿の木に残る渋柿、その向こうには緑と茶色の山々。柿の麓にも枯草。

こちらは12/11(木)兵庫県の西宮教会。
教会の方々と役員会を行ってきました。
その後、近隣の牧師と話し合いもしました。

12/13(土)柳井礼拝所。
待降節第三主日の礼拝でした。
これは「無為の為」によって色づいたポインセチア。
三年前、防府礼拝所から預かったポインセチアの株が、今年初めて色づきました。
赤化の秘訣は「段ボールをかぶせる」ようですが…。放っておいたらこうなりました。
その防府礼拝所。
この日は薄曇りでした。
水仙の葉がぐんぐんと伸びていきます。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

12/17 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 クリスマス礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/24 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 週報による家庭礼拝となります。

           集う形の礼拝は、1/7(水)を予定しています。

12/24 水曜日 19時30分 徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝 

12/27 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝  

12/28 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/14(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

待降節3主日 説教 

マタイ福音書112-11節 「喜びの灯は、揺れる心に」

水原一郎

① 待降節第3主日、アドベントクランツには三本目のろうそく—「喜び」の灯がともりました。「希望」「平和」、そして今日の「喜び」。光は確かに増えていきます。しかし、本日与えられた福音書はどうでしょうか。牢獄の中にいる洗礼者ヨハネは揺れています。悔い改めを叫んだあのヨハネが、闇に閉ざされ、主イエスを疑っているという場面です。待降節第3主日は「喜びの主日」と呼ばれています。ろうそくも「喜び」と名付けられています。一方で、この箇所は「喜び」から最も遠いように見えます。けれども聖書は、喜びから遠い場所、「揺れる心」ただ中に灯る「喜び」を示そうとしているのです。


② ヨハネが牢獄にいる理由は明らかです。マタイ14章によれば、彼はヘロデ王の不義を告発しました。しかし、その正しさは受け入れられず、むしろ拒まれ、封じられました。光に向かって歩み、光である主イエスを指し示していたヨハネは、暗い獄の中で立ち止まります。想像してみます。木の戸が閉ざされた狭い牢。湿った空気。祈っても返事のない沈黙。「私は間違っていたのだろうか」「正しいことを語ったのに、どうしてこのような場所に」ヨハネは、心が揺れます。彼の心から“喜び”は遠く離れて見えました。


③  洗礼者ヨハネはかつて、「来たるべき方」として主イエスを力強く指し示しました。「火と聖霊による洗礼を授ける方」(マタイ3:11)、「殻を消えない火で焼き尽くす方」と語ったのです。しかし、ここまでの主イエスの行いはどうでしょうか。病を癒し、痛みに向き合い、裁くことなく人々に手を差し伸べる。その姿は、ヨハネが抱いたメシア像とは異なって見えたに違いありません。だから、彼は問いを弟子たちに託します。「来たるべき方はあなたですか、それとも他の方を待つべきでしょうか」。確信に満ちていた預言者の唇からこぼれた、一つの“問い”。そこに、揺れる心の真実が現れています。


④ そんなヨハネに対し、主イエスはどうされたか。叱責や沈黙でもなく、こう答えられます。「目の見えない者が見え、歩けない者が歩く」。これはイザヤ61章の預言の引用です。あの時のイザヤは、「捕囚」から帰った直後でした。イザヤはまず「目の見えない人、歩けない人」に注目していることが大切です。主イエスはそのようなイザヤを引用し、“小さな人々に注がれる神の眼差し”を語られました。イザヤが捕囚からの帰還という混乱の中で、まず隣人に目を向けたように、主イエスもまた“最も小さい者”に神の力が働くことを告げます。そしてヨハネを疑いごと丸ごと受け止めた上で、彼の偉大さを認め、さらに言われるのです。「天の国で最も小さい者でも、ヨハネより偉大である」小さくされることがあります。心が揺れることも、弱さを実感することもあります。そこに、神さまの光は最も強く差し込むのです。これが今日の「喜び」の核心です。


⑤ この主日が「喜びの主日」と呼ばれるのは、苦しみがなくなるからではありません。心を揺らす出来事が起きなくなるわけでもありません。むしろ、揺れ動く心にこそ、神の光が届くことを語る、それを喜びとするのです。牢獄で疑うヨハネ。祈っても答えが聞こえないように感じる人。不安や痛みに押され、信仰が揺らいでしまう者。主イエスは、その揺らぎを責めません。そこに寄り添い、その暗さへ光を届け、「見よ、神の国はここに始まっている」と告げられます。私たちの心もまた、しばしば揺れます。病、孤独、葛藤、失敗、人間関係の重荷。そこに主は来られ、「恐れるな」とささやき、小さな“喜びの灯”をともされます。だから私たちは、この救い主を喜びの内に待ち望むのです。


2025年12月9日火曜日

12/3六日市初雪、12/6徳山、12/6徳山、12/7防府

本年の クリスマスの行事は以下のとおりとなります。

 12/17(水)14:00~ 六日市チャペル クリスマス礼拝

 12/20(土)15:00~ 柳井チャペル クリスマス礼拝

 12/21(日)10:45~ 徳山チャペル クリスマス礼拝

       15:30  防府チャペル クリスマス礼拝

 12/24(水)19:30  徳山チャペル クリスマス・イブ礼拝

 それぞれ、どうぞご予定に入れて頂ければ幸いです。



12/3(水)六日市で初雪を見ました!

うっすらと雪化粧。まだノーマルタイヤだったので、

帰り道はゆっくりと。さすがに路面凍結はまだですが・・・。

12/6(土)日程はたぶん、です。

徳山礼拝堂の朝の様子。

好きな景色のうちの一つです。

12/6(土)同じくたぶんの日程。

早朝5時、満月。


 12/7(日)防府礼拝堂

隣の建物が映らないように。はっさく、万作。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

12/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

12/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/17 水曜日 14時 六日市チャペル礼拝 クリスマス礼拝 

12/20 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 クリスマス礼拝 

12/21 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝 クリスマス礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 クリスマス礼拝

12/7(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

待降節2主日 説教 

マタイ福音書3章1節-9節 「まあいいよ、心が荒れていても」

水原一郎

 待降節第2主日を迎え、アドベント・クランツには二本のろうそくが灯りました。一本目の「希望」に続き、本日は「平和」を象徴するろうそくです。昔も今も、人々は「希望と平和」を求めて祈り続けてきました。しかし私たちの周りには、世界にも社会にも、争いや対立、不安、孤独が絶えません。「世界や社会」は大きすぎます。私たち自身の心の内にも、ざらつきや焦り、落ち着かない思いが渦巻くことがあります。そんな時にこそ、聖書の語る「平和」に耳を傾けたいのです。マタイ3章で、洗礼者ヨハネが語った言葉の中に、荒れた現実のただ中で灯される平和を見いだすことができます。


 ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」として登場します。彼が身にまとう姿「らくだの毛の衣、革の帯、食物はイナゴと野蜜」は何でしょうか。旧約聖書の預言者エリヤを思わせるものです(列王記下18節)。ヨハネは、自分の働きをイザヤ書403節の預言になぞらえ、「神のために、荒れ地に広い道を通せ」と告げます。ヨハネが活動した「荒れ野」とは、単なる地理ではありません。それは人々の生きる世界、混乱する社会、そして私たち自身の心の状態を映す言葉でもあります。心が乾き、心が何かで荒らされている時、そこに神が来られる――ヨハネはその出来事を告げているのです。


 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ります。この「悔い改め」(メタノイア)は、ただの反省や後悔ではありません。心の向きを変える、視線の先を変える、新しい方向へと歩き出す――心の荒野に来られる神さまとの出会いを指します。しかし、その出発点は私たちの努力ではありません。「天の国は近づいた」とあります。先に、神さまが私たちへと「近づいてくださる」のです。神の国が、私たちの生活の現実、働き、家庭、悩みのただ中に忍び寄ってくる。「もう立ち止まるしかない」という時、「もう変われない」と感じる時に、「天の国は近づいた」という福音が響きます。これは具体的には、「あなたの深い悲しみのに神が降りて来られた」ということなのです。


 ヨハネの言葉は厳しい響きを持ちます。特に、形ばかりの信心を誇っていたファリサイ派やサドカイ派には、「蝮の子らよ」と遠慮なく叱責しています。しかし、この厳しさは拒絶のためではありません。彼らが本当の意味で神さまの前に立ち帰り、新しい歩みを始めるための、痛みを伴う呼びかけです。外見の敬虔さではなく、神さまの心を中心に生きること――それが「悔い改め」であり、「平和」の始まりです。目の前の人に赦しを伝えること、優しい言葉をかけること、不安な人に寄り添うこと。こうした行為の一つ一つが、神の平和のしるしとなるのです。


 「荒れ野で叫ぶ声」は、今を生きる私たちにも響いています。心が乾き、ざわつき、何かがうまくいかない。そんな「心の荒れ野」を抱える日々があります。しかし、神はその荒れ野にこそ語りかけます。「天の国は近づいた」と。だから、「心が荒れていてもまぁいいよ」なのです。ヨハネが荒れ野に立ったように、主イエスは私たちの荒れた心へまっすぐに歩み寄られます。心が整ってからではなく、平和、平安になってからでもなく、弱さや乾きのただ中に神は来られます。その声を聞き、ほんの少し心の向きを主イエスへと転じる時、私たちの内側から平和が芽生え始めます。世界も社会も、そして私たち自身も、「希望と平和」を必要としています。その必要を、主が豊かに満たしてくださる日々を願いながら、このアドベントを歩みたいと思います。




2025年12月2日火曜日

11/26六日市の柿、11/29柳井ツリー、11/30防府、12/2徳山

 

12/2(火)徳山礼拝所の朝。

聖家族像、ツリーが設置されました。

11/30(日)防府礼拝所

こちらも聖壇が紫と変わり、アドベント。

11/29(土)完成図。
11/29(土)柳井礼拝所のツリー設置中。
11/26(水)六日市礼拝所。礼拝前に撮影。

切り株に熟柿。晩秋を感じました。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

12/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

12/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

12/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/10 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

12/13 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

12/14 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/30(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 

待降節第1主日 説教 

マタイ福音書2436-44節 「希望のろうそく」

水原一郎

 19世紀、ドイツのハンブルグのルーテル教会に、ヴィッヒェルン牧師がいました。「ラウエス・ハウス」という児童施設を開設しました。クリスマスが近づいたある日、子どもたちが牧師さんに聞きます。「クリスマスまで、あと何日?」 クリスマスまでの日取りを目で見て分かるために、牧師さんは大きな車輪に、大きなろうそく、小さなろうそくを付けます。日々の礼拝では小さなろうそくを灯し加え、日曜日の礼拝では大きなろうそくを灯します。「アドベント・クランツ」の由来です。私たちは今日、待降節第一主日を迎えました。最初のろうそくに火が灯されています。一本目のろうそくは「希望」を象徴しているとされます。第二が平和、第三が喜び、第四が愛。「アドベント・クランツ」も、ろうそくの意味も、教会の会議で決められたものではありません。ただこれらは、御子主イエスの誕生を心待ちにする人々の心、人々がこの地上で実現を目指す心の現れです。今日の御言葉も、クリスマスの出来事の始まりを教えるものなのです。


 本日の御言葉は、「その日、その時は誰も知らない」という主イエスの言葉から始まります。これは、「終わりの時」すなわち、主イエスの再臨のときに関する言葉です。ノアの時代、人々は日常を何の備えもなく過ごし、突然、洪水が襲いました。同じように、主の日もまた、予告なくやって来るのです。だからこそ、イエスは弟子たちに「目を覚ましていなさい」と命じられました。それは、日々を主に向かって歩む姿勢を持ち続けることを意味します。抽象的な表現ですが、具体的には何を意味するでしょうか。


 日本でも世界でも、「終末」は恐怖や不安の材料として語られやすいものです。「一人は連れ去られ、一人は残される」といった表現を強調し、人々の不安を煽るような語り口です。しかし主イエスの意図は、決して人々を怖がらせることではありません。主イエスは、再臨のときを明確に告げず、むしろ「恐れではなく希望に生きるとは何か」「今をどう生きるか」を語ります。マタイは次の25章でその姿を描いているのです。


 例えば2514節「タラントンの譬え」では、それぞれが与えられた賜物を用いて生きることを語ります。また31節「最後の審判」では、日々を生きるときに、どれほど主に忠実であったかが、隣人への行動によって明らかにされます。主を待ち望むとは、与えられた賜物を用いながら、日常の働きを「使命」と捉えて生きることです。また、日常生活の中で、自身の賜物を用いて隣人と共に生きることなのです。


 私たちの目の前に灯る「アドベント・クランツ」の一本目は、伝統的に「希望」のろうそく」と呼ばれています。ろうそくを名付けることは、一つの習慣です。しかしこの慣習が意味することは、昔の人も、この地上に希望を求め、ろうそくに祈りをも灯したということです。その慣習を紹介する意図は、この地上に私たちもまた希望が必要だと認めるからです。「希望を届ける働き」は、私たちに託されています。私たち以前に、福音書が語る主イエスも行っていました。働きの中身は、実にさまざまです。人を励まし、支え、癒し、その心に穏やかさを増し加える。私たちも主イエスに繋がっています。


⑥ そのために、「目を覚ましている」教えを静かにかみ締めましょう。「今日という日を、神の御心に従って生きる」決意を求めましょう。この待降節の歩みの中で、主のご降誕を希望とともに待ち望みながら、今の時代を過ごすものでありますように。






2025年11月25日火曜日

11/20ゆずしいたけ、11/22柳井、11/23防府、11/25徳山

 

11/25(火)雨の徳山礼拝所。

夜半からの雨は、紅葉を散らしました。いよいよ冬。

落ち葉の掃除は明日の仕事となります。

11/23(日)防府礼拝所。献花は一足早くポインセチア。
11/22(土)柳井礼拝所。会員の方が花壇を整備されました。
11/22(土)同じく柳井礼拝所。看板も新調されました。

関係する法人の職員の方々のお働きです。

11/20(木)その前日頂いた「原木しいたけ」とゆずの合作。

これはたまりません。箸が止まらず、気づいたら二個。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

11/26 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/29 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/30 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

12/3 水曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

12/6 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝 

12/7 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び 

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時30分 防府チャペル礼拝 

11/23(日)の礼拝説教の要旨は以下の通りです。 


聖霊降臨後最終主日 説教 

ルカ福音書2333-43節 「動く私、支える神さま」

水原一郎

①  教会の暦で「聖霊降臨後最終主日」を迎えました。2025年という歩みを思い返す時になっています。秋の終わりという季節です。年末よりは1カ月前、心静かに思い出し易いと言えます。家族や大切な方を送った方もおられるでしょう。危機には至らず一年を終えられた方もいるでしょう。いずれにせよ、誰一人として“何もなかった”一年などありません。この最終主日は「王なるキリストの日」とも呼ばれます。しかし聖書が私たちに示す“王”は、権力や成功の象徴ではなく、苦しむ者と共に立ち、なお他者に心を向ける王です。今日は、その姿に一年の自分自身を重ねたいと思います。


② 十字架にかけられた主イエスは、マタイとマルコ福音書では、詩編22編を口にされます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか。」詩編22編は、痛みから始まり、神への信頼へと歩み出す祈りです。ルカでは主イエスの叫びの記述はありません。しかし主イエスの周囲では、詩編22編が描く事が起こります。着物はくじで分けられ、人々は主をあざける。しかし、注目したいのは、主イエスがご自身の苦しみに閉じこもられなかったという点です。主イエスは叫ばず、代わりに、赦しと回復の言葉を語ります「父よ、彼らをお赦し下さい。」「今日、あなたは私とともに楽園にいる。」ルカは、見捨てられたと叫ぶ主イエスではなく、見捨てようとしない主イエスを描きます。苦しみが極まった時、人は自分の痛みに閉じこもります。しかしイエスは、そこでも「他者へのまなざし」を持ちます。「動かない十字架上の主」が、今日の主題です。


③ 主イエスの左右には二人の犯罪者がいました。片方は苦しみのあまり、おそらく弱々  しい声で主を罵ります。もう片方は、同じ弱々しい声で、ただ一つの願いを口にします。「あなたが御国においでになる時には、私を思い出してください。」こちらの犯罪者は、自分が御国に入る資格などないと思っていたのでしょう。ただ、“忘れないでほしい”“あなたの記憶に留まりたい”と願ったのです。苦しみの中で、人はしばしばこの二人のどちらかの姿になります。怒りがあふれる者もいれば、声にならない助けを求める者もいる。私たちの一年の中にも、この両方があったはずです。


④ では主イエスはどうされたか。「はっきり言っておく。あなたは今日、私と一緒に落年にいる。」主イエスは、彼の“罰を受けるべき犯罪者”としての過去ではなく、苦しみの中で差し伸べられた、ただ一つのささやかな信頼に目を留められました。ご自身が死の淵に立ちながら、なお他者の痛みと願いに心を向ける。ここに、王なるキリストの本当の姿があります。対象は、人生における揺れ動きを体感した犯罪者。そこに赦しがあります。このお方が、私たちが心を向けている主イエスなのです。


⑤ この最終主日に覚えたいことは一つです。「動き続ける私たちを、動かず支える主がいる。」状況は変わり、私たちも揺れ続けました。恐れに傾いた日も、怒りに傾いた日も、祈りすら形にならなかった日もありました。それでも主は、揺れる私たちを手放さず、十字架という“動かない場所”から支え続け、赦されておられました。詩編22編が「嘆き」から「信頼」に向かったように、十字架の犯罪者が「絶望」から「楽園」へ導かれたように、私たちの一年にも同じ主の御手が働いていました。来る年、私たちはまた動きます。揺れます。迷います。立ち止まるかもしれません。しかし、動く私を、動かず支える主が共におられる。その確かさのうちに、新しい歩みを始めましょう。