2024年11月12日火曜日

10/26.11/4.10 柳井川、宇部、防府

 

 こちらは、11/10(日)防府の礼拝です。

 赤(宗教改革)→白(全聖徒)→緑の典礼色でした。

 こちらは、11/4(月・祝)るうてる秋の大会の外の様子です。

 会場は宇部教会でした。

 こちら、10/26(土)の柳井。

 雨が濁流となっています。

 カニもたまりかねて上陸。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

11/16 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/17 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

11/19 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/23 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/24 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

イザヤ 25: 6 9 (1098)

 説教           「遠くを見つめ、近くを生きる」 

    賛美歌「いつくしみ深き」は、「母への手紙」が基になります。婚約者と死別した青年が、自分の母に、心痛む状況の中でも「友なるイエス」の支えで生かされている、という思いを記したものです。青年の信仰の言葉は、後年、私たちが歌う讃美歌とされたのです。

 

   イザヤ書は、他国からの侵略(17)の危機に記されたものです。厳しい現実の中だからこそ、2章でやがて「平和」が、9章では「イマヌエル預言」が語られます。イザヤも一人の当事者として、まずは現状を越えた後の希望を読み手に示します。それが6節に現れます。

 

   ただ、8節は「現実」に触れる箇所とも読めます。「死を滅ぼす」とは、死という概念の抹消です。地上の命の終わりはありますが、続く「新たな生」を示唆します。しかし悲しみの「別れ」に直面する遺族を神は「涙の拭い」で接します。神の、個々への愛が示されます。

 

   主イエスはこのような「死後の世界観」を体験された方でした。十字架後の三日間を経、今なお私たちの懐かしい方々と共にあるのです。「いつくしみ深き」の青年も、主を友とし、日々を過ごしたのです。心に浮かぶ懐かしい方との再会の日を思い、日々過ごしましょう。






2024年10月29日火曜日

10/26.29 柳井と徳山

 

10/29 いつしか秋になりました。

酷暑を乗り越えたメダカたち。

10/29 朝から曇りの徳山。午後遅い時間に雨の徳山

花壇は教会員さんのお手入れによります。


10/26 柳井 宗教改革礼拝でした。

今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

11/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

11/6 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

11/9 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/10 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

エレミヤ31:3134 (1237)

 説教              「昔のことは今のこと」 

   マルチン・ルターの「聖書に帰ろう」という呼びかけは1517年「宗教改革」となりました。「感染症」が「世界を不安で覆う」時代の中でした。本来なら、教会は不安に直面する人々を支えるはずでした。しかし時の教会の一部は、不安の波に乗じ商売をしていました。

 

   エレミヤ書の「新しい契約」で、神は、石板の「十戒」に替わる手段を示します。なぜか。エレミヤの結びは事実としての、都の飢餓と、他国による破却と捕囚です。滅亡に向けた中で、エレミヤは心の備えを語ります。み言葉は神殿に替わり、個々の人にあると告げます。

 

   エレミヤは、ルターが主張した「先行する神の恵み」の原型を語ります。ルターの時代の感染症、ペストは人々に「死の凄惨さ、大量の死、不可解、恐怖の継続」を示しました。エレミヤは堕する偽預言者に替わり、ルターは堕する教会に替わり「根付く神」を説くのです。

 

   ルターの地域では、教会は「一枚のお札(免罪符)」を「不安の払しょく」に用いました。ルターはその時代の中で「人を義とされる神と、イエスの働き」を伝え、教職には「大教理」信徒には「小教理」を記しました。今も困難な時代の中、「真理」を求めて過ごしましょう。






2024年10月25日金曜日

11/19.20.23 柳井、防府、神戸

 

 10/23(水) 久しぶりに神戸教会に出張してきました。

 写真は神戸教会、礼拝堂です。

 心臓破りの坂を速足で上り、汗をかきました。

 10/20(日)防府の礼拝堂です。

 天窓のステンドグラスが写せないかと試行錯誤。無理でした。

 10/19(土)柳井の礼拝堂。

 きれいな花を前に、子どもたちのテンションが上がりました。

 週末の更新になってしまいました。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

10/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/29 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 家庭礼拝です

11/2 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

11/3 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■マルコ10:3545(82)

 説教              「起きたことは天啓」 

   主イエスに「コネ」で出世を頼む兄弟弟子、そこに立腹する他の弟子たち。主イエスは彼らに何を言うのか。さて、兄弟弟子は「栄光を受ける時」と言います。主イエスは、直前で「栄光」に触れません。一回目「受難予告(8:38)」の「栄光にて来る」の反映と見ます。

 

   第一朗読は、旧約・イザヤ書の「苦難の僕」です。「捕囚」という苦渋の極致にある同胞に、苦渋に共感する「苦難の僕」を送るイザヤの預言です。主は「僕」をご自身と重ね、苦難の最期を迎えること。また、人の負い目を負う自身を「身代金」として位置づけるのです。

 

   一方、兄弟弟子たちは、直前の「苦難」に触れず、「栄光」に思いが留まります。主の願いである「苦難の同伴者」を理解もしません。しかし兄弟たちは「盃も洗礼も受ける」と、やがて主が語った通り、苦難を辿ります。それは主の復活の出来事と、聖霊降臨後でした。

 

   主は「仕えること」を告げます。ディアコニアという言葉の語源で、原意は「チリかぶり」です。「額や心に汗をかく」ことで、チリは見えます。弟子たちは「共有の社会(使徒2:44)」の中で、実行します。「起きたこと」に対し、額や心に汗をかいて日々を過ごしたい。


2024年10月13日日曜日

10/12.13 防府、徳山、柳井

 

 ある日曜日の防府チャペルの様子。聖壇のお花も秋となりました。
 柳井の様子。
 下松の海岸。遊歩道が海にせり出している「はなぐり海岸」です。
 こちらは柳井。秋のお花の代表格、コスモスです。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

10/19 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/20 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/22 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/26 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/27 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■マルコ10:1722 (81)

 説教              「背を見る瞳」 

    「富める青年」は「永遠の命」を求めていました。「陰府」でなく「豊かなみ国」への願いと言えます。青年は、単独・孤独という意味の「陰府」への出立を望まなかったのです。その青年に主は、十戒5~10項を問います。これらは青年に実行出来ているものでした。

 

主が、安息日の礼拝規定(4項)を外したことがここの肝要なことです。礼拝規定は、礼拝行為の勧めのみではありません。安息日は、隣人を物心で覚えることを目指します(レビ23:38)。主は青年の「関係の希薄さ」に気づき、「関係を創る」ことを勧められます。

 

これを厳しいとと取る青年は主のもとを去ります。その青年を主は「慈しんで」見送ります。単独・孤独から脱したかったために主のもとを訪ねたのでしょうが、その状況は続くのです。モノに、自己に執着する人を覚えた主は、やがてご自身の全てを差し出されました。

 

主は彼を「慈し」みました。「慈しみ」とは、深い情愛と言い得ます。つまり、自己を惜しみ、他者への愛に踏み出せない私たちの姿です。そこに主は究極の自己放棄をなさいました。私たちはその主との関わりに生きています。「単独・孤独」なこの世の人々を覚えましょう。


2024年9月25日水曜日

9/21.22 柳井、徳山、防府

 

 9/22(日)防府の礼拝堂です。緑の典礼色に、紅い花。


 9/23(日)徳山の礼拝堂。落ち着いた雰囲気ですね。


 9/21(土)柳井の礼拝堂。説教壇には「信望愛」のうち、信。


今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

10/1 火曜日 17時 六日市チャペル礼拝 

10/5 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

10/6 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

◇マルコ9:33~37 (79)

 説教              「小さくされた人々に」 

    聖書は、大人と子どもの線引きとして、律法の教育(申11、箴22)の有無を示します。子どもは「未熟」と見なされます。しかし主は「子どもの受容」が、救い主や神を受容すると言われます。主は子どもとの関わりを通して、神や主イエス自身の姿を説かれるのです。

 

   主の言葉の背景は、弟子たちの「誰が偉いか」の議論でした。「主の弟子間」の偉さですから、実績を披露し、相手を暗に否定したのです。直後でヨハネが功績を誇る通りです。結論は、弟子間の序列です。その結論に主は、当時「半人前」と見られた子を提示します。

 

   子どもに限らず目の前の人の受容は、状況と事柄に依り、容易にも困難にもなります。しかし神や主イエスは、状況と事柄に依らず、人々を受容されました。ここで主は「子ども」の受容を試みることを通し、自身を含む、全てを受け入れる神さまを覚えることを勧めます。

 

   「一番先になる(35)」価値観は、競争の原理となります。社会を発展させた考え方でしょう。競争だけでは疲れることもありますので、「休息」も必要となります。カファルナウムの「家」にいた子どもも、主の基に集い、休むのでしょう。今日、そのことは私たちも同じです。



2024年9月18日水曜日

9/14.15 柳井、徳山、防府

 

 9/18(水)徳山礼拝所の様子。玄関からの撮影です。
 9/15(日)防府礼拝所の様子。かわいらしい花です。
 9/14(土)柳井礼拝所の様子。献花は秋の様相ですが、外気は真夏。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/22 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

9/24 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

9/28 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/29 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

◇マルコ8:2738 (77)

 説教              「神は、あなたと共に」 

    死海は「塩の海(創14:3等)」として知られる窪地の湖で、ヨルダン川が注ぎ、水源はヘルモン山でした。「フィリポ・カイサリア」とはヘルモン山ろくにある避暑地でした。ユダヤ国内でローマ式命名が成されていたのは、ローマ帝国の「飛び地」と「された」からです。

 

    地域名は、ヘロデ・「フィリポ」王が、皇帝「カイサリア」に献上した由来からです。地域の人々の心情は、集めた噂に現れます。為政者批判に歯に衣着せぬヨハネ、唯一神への回帰を訴えた預言者エリヤ、(義人の苦しみを語るエレミヤ)が主イエスに重ねられます。

 

   「モノ言う人」ヨハネとエリヤの役割が主に求められたのです。主は弟子たちに自己理解を求め、ペトロは「メシア」と答えます。厳密には意味は二つです。黄金時代を確立したダビデの再来、或いは苦難に同伴する存在。ペトロが思い描いたのはどちらでしょうか。

 

   主は「沈黙命令」を発します。時代やペトロの求めは「黄金時代の再確立」メシアでしたが、「カイサリア」でのトラブルは不要と見たのです。主の自己理解は「苦難の同伴者」でした。十字架の死を克服された主が、厳しくも、穏やかでも、共にあることを覚えましょう。


2024年9月8日日曜日

9/7.8 防府、柳井、徳山

 

 9/8(日)礼拝後、牧師室から観葉植物を臨んでいます。

 

 9/7(土)柳井チャペルで歌っている、子どもの讃美歌。

 「厚狭教会キャンプ」でも歌われていました。

 会員の方が、歌詞を書き、装丁してくださいました。

 9/1(日)防府の礼拝堂。

 今から向かいます。

 今週以降の行事は、以下のとおりです。

いずれの集会、礼拝にもどなたでもお越しいただけます。

9/14 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/15 日曜日 10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝

9/17 火曜日 18時半 六日市チャペル礼拝 

9/21 土曜日 15時 柳井チャペル礼拝

9/22 日曜日 10時 徳山チャペル聖書の学び

       10時45分 徳山チャペル礼拝

       15時 防府チャペル礼拝 

説教の要旨は以下の通りです。

■マルコ7:2437 (75)

 説教              「助けることは、共にいること」 

    今日の聖書には「病癒し」の主が記されます。「悪霊(26)」がもたらす病は、「熱病」の可能性があります。今日「患う理由」は「病の仕組み」が解明されつつあるので、恐れは低いものです。主の時代は全て手探りでした。その病に向かう主の姿勢を聞きましょう。

 

    類似のマタイ15章と共に、登場の女性は「異邦人」となります。主イエスの「国際性」と、病の「普遍性」をも示します。熱病は「神の呪い(申28:22)」とされていました。数日で治る熱ではなく、続く症状にこの母も心を痛めるのです。ここに私たちとの関連があります。

 

    「病」とは、り患した当人は快癒を願います。また近しい人がり患した場合は、快癒を願い、原因を問い続け、自責を抱くこともあります。名高い主の噂をもとに母は治療を願います(26)。しかし主は「民族性(エゼ34:16)」に基づく、拒絶と見える答えを返すのです。

 

    厳密には拒絶ではありません。主は、「ユダヤ選民思想」は「神の愛」の前には成立しえないと受け止めていました。だから「犬」ではなく「子犬」と呼び、全ての人は神の前に愛されると語るのです。聖書にある、家族を思う姿を大切にされる主の姿を覚えましょう。