本日の礼拝では、就職、高校入学、小学校入学、幼稚園、保育園入園の
信徒家族を覚えて祈りました。
また洗礼式も行われました。昨年9月に誕生した幼子が、
神の民の一員とされました。
新規に奉献された洗礼盤も、初めて用いられました。
教会の礼拝後は、礼拝堂で卵探し(イースターの恒例行事ですね)
一品持ち寄りの愛さんが行われました。
来週も礼拝は、4/12(日)に行われます。
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
4/16(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。いずれの礼拝も、どなたでもお越しいただけます。
本日の礼拝メッセージの要旨です。
【マルコによる福音書16章1-8節】
ただ今のカレンダーは日曜始まりが主です。日曜暦はキリスト教的脈絡の中で生まれました。即ちイエスさまの復活が根拠なのです。本日はイースターです。ところが原初のイースターは寂しい始まりです。墓参りの婦人たちの会話から始まります。既にイエスさまは処刑された後でした。お墓参りのご婦人方の心には、問題が山積りでした。
時は安息日後です。安息日後の日は、リフレッシュして本来的には新たな気分です。ところが「ブルーマンデー」という言葉がありますね。婦人たちも同様の心持ち。そもそもイエスさまが不在、墓には番兵が居ますし、たとえ番兵を交しても「非常に大きな石」が墓を塞いでいました。しかし「石は無かった」婦人たちの心配は顧みられたのです。
墓に入りますが、若者がイエスさまの復活を告げます。でも婦人たちは驚いて、逃走、沈黙を保ちます。ここでの若者の言葉の意図は二つあります。一つ、「人」の行く手を定めるのは神さまだということです。婦人たちは己で「墓参」を日課と定めましたが、それは覆されました。二つ、どのような「人」でも主は覚えるということです。若者の言葉の中には、不自然な人名が登場しています。それはあのペトロなのです。
この時ペトロは恐らくエルサレム市内で懺悔と後悔の時を送っていたことでしょう。ブルー以上にグレーな心境でした。けれどもそのペトロの心を晴らす知らせが、「あの方がガリラヤで待つ」という言葉。それがペトロにとっての福音だったのです。聖書には福音という宝が内包されています。日曜日に、私たちはこの宝を頂きたい。そして休んで身近に福音を語るものでありたい。「人に力を与える言葉」という福音を。