それは気のせいでしょう。
アングルを変えて、ステンドグラスを背景にしてみました。
礼拝後、牧師室の窓からこっそり撮りです。
子どもたちがなにやら遊んでいます。
何でも楽しかった夏休みが懐かしい今日この頃です。
本日も礼拝は、山陽三教会で守られました。
徳山では冷やし肉うどん。柳井、防府でもお茶とお菓子による
礼拝後の交わりが行われたと思います。
益田、六日市の礼拝は、今週も行われます。
7/26(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
7/23(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨は、以下の通りです。
今日の聖書は、嵐の海に遭遇する主の話です。弟子たちの中には漁師を出自とするものがいました。この湖には、朝と夕方には山おろしの突風が吹くのです。船は夕方に出ますが、これは操船には相応しくない時間帯でした。しかしこの船出は弟子たちの決断でなく、主の決定することでした。主は、この湖の朝夕の天候急変を知らなかったのでしょうか。
主は誕生こそユダヤの南地域のベツレヘムでしたが、成長は北地域ガリラヤ湖畔の町ナザレでした。大工見習いで世情に通じていたのです。弟子たちは、南地域出身の「イスカリオテのユダ」のみが知らなかったのでしょう。未知の弟子には、嵐は困惑そのものです。人生に例えれば突然の困惑や不幸です。周知の弟子たちにとっては嵐は一つの事象ですが、動揺する同輩の不安な心持ちに影響されます。人生には、影響を受けることもあります。
嵐で慌てる弟子たちですが、ここで弟子たちは最善を為したのです。それは主を起こし、主と共にこの惨禍を乗り切ったことです。それこそがこの聖書の使信です。私たちは誰もが人間的な災禍に遭遇するものです。なぜ私に、どうして私がという問いを問わざるをえません。その中で、「されど主により頼む」の心が今日の皆さんを作っているのです。ですから、今日の聖書は、私たちに先だって範を示した弟子たちの姿を改めて刻みたいのです。
弟子たちは主を起そうとします。そして主は起きます。船は教会を現わします。嵐の最中にある時、私たちは沈みそうになる自身や他者を思いますが、「嵐」などでは沈みません。それを忘れがちな私たちのため主は起きて、私たちと共にその嵐を乗り切って下さいます。今日私たちは、何ものをも私たちを沈めない確信を得たいのです。そして、困惑の最中、私のために起き賜う主を想起したいのです。今週も主と共に船をこぎ出す群れでありたい。