本日の献花は、ひまわりでした。
7月に入ると、ひまわりの季節だと思いますね。
ひまわりは「向日葵」。「向日性」の植物であるにもかかわらず、
主の十字架に背を向けています。 人間と同じ、なのかもしれません。
今週も、シオン教会各礼拝所では、礼拝が行われています。
徳山では礼拝後、敷地内の草刈が行われました。
防府では先週の礼拝前に、敷地内草刈が行われたと言うことです。
今週、来週ともに、礼拝は以下の日程で行われます。
どなたでもどうぞご自由にお集まり下さい。
7/12(日) 徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
7/9(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。
本日の説教要旨は、以下の通りです。
【マルコによる福音書3章20-30節】
「癒し」の言葉が世の中で用いられ出して久しいですね。新約聖書には「癒し」と訳すことが出来る二通りの言葉があります。一つは「セラピー」の原語です。元々の意味は「傍にいる」です。もう一つは「イアオマイ」と言いまして、こちらは具体的な治療、処置です。聖書文化圏は、人の治療に関して二通りがあると考えていたのです。しかし聖書は両者に優劣などを付けません。双方の手法ともに尊重するのです。
主も双方の癒しを用いますが、この直近の記事で主が用いた癒しは「セラピー」の方でした。マルコ3:10「多くの病人を主は癒す」とあります。具体的な援助や措置ではなく、一人ひとりの傍にいる、心に寄り添う主の姿です。主はその出来事の後、自宅に帰ります。ところがその家で主は捕縛されそうになるのです。身内によってです。後を見ると母マリアや兄弟たちが登場します。その理由は「気が変」というものです。
癒しがなぜ「気が変」となるのか。「気が変」の言葉の意味は「外側に立つ」の意です。主の家族には主は「外側に立つ」。こちらではなく、普段接しないような病者と付き合うことが異常と看做されたのです。また「ベルゼブル」も苛烈な言葉です。意味は「蝿の王」です。主はそのように看做され、呼ばれたのです。蝿のような生き方をしている、まさに蝿の如しであると。怪しからぬ存在だと主は看做されたのです。
主は家族には気が変と言われ、敵対者には蝿の王と看做されました。でも主は、共にある神として「傍にいる」ことを旨とされました。私たちはこのイエスさまのお気持ちに確信を持ちたい。状況の中で生きる、生きることを求められる私たちに、主は寄り添うのです。聖霊の働きにも、併せて確信を持ちつつ、日々を過ごしたい。