本日の献花は、本日まさに誕生日を迎えられた方によるものとなりました。
紫の花です。これも聖壇に生えます。
本日、徳山や柳井、防府では礼拝が守られました。
徳山はわかめおにぎりと、にゅうめんの愛さんとなりました。
先週来られた方が、続けて今日も来られるという喜びの日でした。
来週も礼拝は、10/25(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
10/22(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨です。
【マルコ福音書10章17-31節】
今日、私たちは、日本の先輩たちの努力で、金銭的な貧しさは感じることはありません。欲しい物が無い訳ではないでしょうが、貧しさとは無縁です。でも、物質的な貧しさ以上に、精神的な貧困、心の貧しさ、ということは言われ続けています。マルチン・ルターは「あなたの心の気掛かりなものが神」という、解説が必要なことを言いますが、私たちは果たして何を「神」とするのか。厳しく問われているのでしょう。
聖書には金持ちの青年が登場します。彼は、求道心あふれる青年でした。救われている、という確信がないからです。主は財産を売り、貧者に施す答えを説かれます。彼はびっくりします。主か財産かの二者択一を問われる。言い換えれば、自身か神かの問いです。彼はすごすごと主のみ前を去ります。多い、少ないに関わらず、全財産放棄の命令は誰もが実行不可です。それが私たちに当てはまる、はずがありません。
この聖書が問おうとすることは、財産放棄ではありません。「何を神としているか」、大事にしているかを問うものです。青年には、財産が大事であり、それが彼の神だったのです。私たちも、この世でさまざまなことに出会い、時に多くの心配事を抱えます。心配事の中身は自身や家族の問題、先行きや仕事、家庭のことでしょう。神さまに信頼するとは、それらの私たちの心配事をも、神が導くとの確信に生きることです。
日々の生活で私たちは不足を思います。時に私たちは、この「富める青年」となります。「天に富を積む」とは主の青年への勧めです。私たちも、時に心配事を神とする時、「心配事をも天に積みたい」者です。青年は悲しみつつ去る。主も悲しかったでしょう。主の悲しみの眼差しを思いつつ、天にすべてを積んで生きる者でありたい。