本日も、山陽三教会では礼拝が守られました。
写真は徳山教会への献花ですが、柳井、防府ともそれぞれご奉仕の方のお気持ちで献花がなされています。
徳山Cは本日、「宗教改革を覚えて」の礼拝が行われました。
献花にも感謝です。
徳山Cの愛さんは、本日ラーメン。昔ながらの東京風ラーメン?でした。
なつかしい、味わいです。
来週も礼拝は、11/1(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
10/29(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨です。
【マタイ福音書5章1-6節】
498年前のドイツの話です。教会では、説教壇から司祭が山上の幸いの教えを語るはずでした。元来主は無償の幸いを語りました。そして神と人との繋がりで幸いを得させました。ところがドイツの教会。説教壇では主からの無償の幸いを語りつつ、司祭が主の無償に金銭を上乗せしていました。教会は「免罪符」と称されるものを販売したのです。憂うる修道士ルターが、「95箇条の提題」を公開し、宗教改革が起こります。
中国語でルーテル教会を「信義宗」といいます。「信仰による義しさ」に二つの意味があると思います。「信仰」は、私たちの信仰、そして主の信仰ということです。私たちは、神を信じる、その信仰により義とされると思えます。だが私たちの信仰は揺らぐ。500年前の教会の人々も然り。揺らぐ信仰の持ち主はどうなるか。聖書にはパウロの言葉があります「私たちが真実でなくとも主は真実」と。主の信仰こそが大切です。
主は「心の貧しさ」への幸いを語ります。心の貧しさとは今日、感受性や共感性の欠如と解されます。聖書の時代の「心」とは、精神、信仰を表します。聖書的には、心の貧しさとは信仰の貧しさ、欠如のことです。主はその人々を叱らず、祝福するのです。「心」が貧しくとも、天の国は開かれる、そのような招きを言われるのです。
ルターの時代、教職者は口では立派を言いつつ、人々の信仰心の欠如という不安に付け込みました。主の時代、宗教者たちも人々に信仰の欠如の不安を与えつつ、商売に励むのでした。主はその宗教者に憤りつつ、心貧しき者、信仰薄いものへの祝福を語ります。ルターは改革者でしたが、主に倣うものだったのです。私たちは皆、この主に用いられる群れです。何を成し得るか。日ごとの働きの中で、主の手足となりたい。