本日は「召天者記念礼拝」として、礼拝が行われました。
聖壇の左側にはテーブルが用意され、ご召天の方のお写真が連なっています。
礼拝後、徳山では愛さんとして豚汁とわかめのおにぎりの食事が用意されました。そして、礼拝後…。
花壇の植え替えが行われました。
すがすがしい陽気の中、元気に育つことでしょう。
本日も柳井、防府、徳山では礼拝が行われました。
来週も行われる以下の礼拝、どなたでもご自由にお越しいただけます。
11/8(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
11/5(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨です。
【マタイ福音書5章7-12節】
漢字にはそれぞれ由来があります。聖書に登場する「憐れみ」という文字は、「心」と「つながり」という文字から成立しています。「神の憐れみ」とは、「神と私たちとの心の繋がり」なのです。本日は全聖徒主日です。目の前の方々は、かつて私たちとの繋がりが与えられた。そして今は神の国で安らぎに包まれるのです。「神の憐れみの内にある方々」とは、言い換えれば、今神さまとつながっている方々なのです。
主は聖書で「憐れみ豊かな者」への幸いを語ります。前段落には山上の説教の聞き手がいます。大勢の病者。そして「連れてきた」人々です。「心が繋がっている」がゆえに、人々は連れ立って主のみ前に来たのです。主は、病者やその友をここで祝した。私たちはこのお写真の方々と住まう場所は異にします。けれど本日連れてきたのです。すなわち私たちも、主の「憐れみ深さ」の言葉の対象です。お写真の方々も対象です。
「心」とは当時の意味では信仰や精神を表します。「清い」と言われます。私たちは、自身や他者や召天者を見て思う。「清さ」とは離れているかもしれません。それは私たちの感性です。主は一人一人に清さや純粋さを見るのです。清濁の世界で生きる私たちは、清さが分からくなっているかもしれません。でも主は私たちにも、召された方々にも清さを見出すのです。やがて私たちも、先立つ方々と共にみ国で神を見るのです。
第一朗読は召天者の生存者への祈りでした。「その日には、歌を歌う」の言葉で始まります。古人も召天者との繋がりを思い、共に歌う日を待ち望むのです。私たちはこちらに住み、召天者はあちらに住む。しかし繋がっている。時にはこの世の嵐で、悪口や困難にぶつかります。しかし「主に繋がっている」ということを覚えたい。