写真はアニメチックな聖家族。
玄関ではクリスマスツリーがあります。
礼拝堂の様子。聖霊をイメージしたという、紫の布です。
本日の献花。可愛らしい赤い実がなっています。
こちらも聖家族。実は、博士が一人、出奔していましたが、
めでたく見つかりました。良かったです。
本日も、徳山では礼拝が守られました。
本日はみなさんのご都合が重なり、礼拝出席は少なかったのですが、
それでも協力し合って上記の準備が出来ました。
来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
どなたでもご自由にお集まりください。
11/22(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
11/19(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨です。
【マルコ福音書12章41-44節】
聖書の教えを私たちは難しく考えてしまいます。「愛せよ」「許せよ」「委ねよ」などです。それが実行できれば楽でしょう。できない所で戸惑う私たちです。本来主は、大らかな生き方へ招いたのです。今日の聖書。結論は確かに「委ね」「任せ」であります。だが主は一言も指示せず。女性の生き方を通し「任せる」生き方へと招くのです。
主はエルサレムに入り、議論をいどむあまたの学者を退けた場面でした。神殿の境内で賽銭箱の様子を見られます。当時この賽銭箱には不思議なからくりがありました。献金時に、献金箱に自動ラッパがあって、それが鳴るのです。多額献金者は華やかに鳴る。少額者は鳴らないのです。大勢の金持ちの中、やもめが2レプトンを捧げる。少額でしょう。献金箱は響かなかったでしょう。しかし主が近づき、多くを捧げたというのです。
なぜか。献金額は問題でない。そもそも「入れる様子を見た」の「見た」とは「心を見た」ということです。それでは彼女の心持はいかがか。背景は記載されていないので、想像することしかできません。私たちがこの立ち位置ならどうか。不安もあるでしょう。握りしめる50円玉二枚。金額としてはパン何日分か。日々の糧も買い得る50円玉二枚を、彼女は手放す。握りこぶしから献金箱に入れる。主の心が響くのです。
手元の50円二枚を差し出す時、彼女の心に不安が半分はあったでしょう。もう半分は期待かもしれません。一文無しになる自身に神は何を成すか、神に委ねたら神は何を成すかということです。主はその不安と期待とを見たのです。完全な、立派な委ねる心でなくとも、半分や四半分の信頼でも主は見られます。今の自身の課題を、問題を、つらさを、主はどのように解決されるのでしょうか。一歩、踏み出してみたい。