2015年11月8日日曜日

11/8 教会の献花と、メッセージ

本日は、小雨ときに強く降る雨の中、礼拝が守られました。
 徳山では、「子ども祝福式」が織り込まれた礼拝となりました。

 写真の献花は、会員子息の誕生を覚えて捧げられたものです。
 徳山では礼拝後、もちよりの愛さんが行われました。

 からあげ、湯でエビ、大根サラダ、煮物、マカロニサラダ、ちらしずし、
 かまぼこ、チーズケーキ、ぜんざい、これらを皆で頂きました。

 来週も礼拝は、以下の日程で行われます。
 どなたでもご自由にお集まりください。

 
 11/15(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 11/12(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。

 

【マルコ福音書122834節】
「若い日に創造主を覚えよ」の言葉がコヘレト書にあります。このみ言葉は真実です。私たちは今から少し若い時に主と出会いました。それ以後年齢を重ねます。様々なことを経て今に至るのです。神の守り無くして今はないのです。聖書は主が「愛心愛隣」を教えます。「神を愛し隣人を愛する」その教えが実行できているか、年齢を重ねると「神に愛され、隣人に愛される」と知るのです。故に今日がある。聖書に聞きたい。

今日の聖書で主は既にエルサレムに入っています。間近には妙なことを目論む宗教者「言葉尻を捕えようとする学者たち」の真打が登場します。問うことは、律法の中での大事です。主は答えて「愛心愛隣」。むしろ主と律法学者の交わしたことばこそが大切なのです。主からの言葉に私たちが成し得る「愛心愛隣の神髄」が含まれているのです。

主の言葉は申命記の引用です。神をどれほど愛するか。申命記には「心、力、魂」。主は「心、力」までは一緒だが、「精神、思い」と原文にないものを加え、「魂」を削ります。心も精神も魂も、意味としての大きな違いはありません。ところが学者。妙な付け加えをします。「心と力」は一緒だが、「魂」を削り「知恵」を加えてしまうのです。申命記の意味を、大幅に転換してしまうのです。「知恵を尽くす」とは難しい。

主の学者への答えには含みがあります。「適切な答え」「遠くない」と。申命記の言葉を歪め、知恵を加えた学者への悲しみです。神を求めるに、命ありのままではなく、知恵という人知を加えた悲しみの心が主にありました。学者は「自身が神に近づく」ことに専心した。主も「愛心愛隣」を語るが、その実は「愛される」ことを教えたのです。私たちは愛されるものだということ。それを今週は改めて覚えたいものです。