徳山Cでは、献花としてコスモスが捧げられました。
礼拝後、愛さんがあり、その後に月一の大掃除が行われました。
大掃除、外班の方が「タイムカプセル」を発見されました。
中身は、教会員子弟が子どもだったころのものでした。
ИBA(原文ママ)の選手になりたい、など、夢あふれるものでした。
来週も礼拝は、10/11(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
10/8(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨です。
【マルコ福音書9章38-50節】
時に私たちの人生には逆境や困難があるものです。旧約のヨブには、「なぜ」と問うたこともありましたし、ただ嘆く時もありました。ただ、逆境の中でこそ神さまは導くのです。さて、このマルコ福音書の弟子評は辛口です。これは、主の言動を際立たせ、弟子の無理解を強調し、その無理解を導く趣旨からなのです。私たちの姿が、この弟子たちの中に現れていることを思いつつ、本日のみ言葉をご一緒に聴きたい。
マルコ9章では弟子たちの内、今日の主人公の一人、ヨハネが主の変容の場に同伴しました。「選ばれたのだ」という意識が芽生えた瞬間でしょう。しかしこのヨハネを含む弟子たちは「誰が偉いか」の議論を主に聴かれ、面目ない思いをしました。汚名返上の思いでしょう。ヨハネは「主の名の無断使用」の場面に出くわします。「受け入れよ」と語る直前の主の言葉はどこ?? 主のみ名を汚す者への実力行為が先立ちます。
ヨハネ はざ んねんです。主のお名前が「悪霊払い」商売で用いられる現状を受容し難いのです。だが主は留めます。「味方」なのだと。なぜ「味方」なのでしょうか。主の名による悪霊追放は、主を信じるが故に可能なのです。主を信じる者へのヨハネの実力行使は「躓き」に他ならないからです。主はヨハネを叱る。聖書後半はヨハネへの厳しい言葉。ヨハネにとっては踏んだり蹴ったりです。ヨハネにとっては、弟子としての逆境です。
それが最後の主の「人は皆火で塩味を付けられる」で顧みられます。ギリシアの理解では火は生成と消滅を意図します。主の厳しい言葉はいわば火なのです。主からの厳しい言葉も逆境も、ヨハネにとって塩を得るための物です。ヨハネの厳しさや特権意識が除去されて初めて、塩が見出されます。逆境や困難にも、かならずその意味があるのです。