最近、ようやく「残暑」という言葉が感じられる「暑い」日々です。
本日も、山陽三教会では礼拝が行われました。
徳山は礼拝後、カレーライスの愛さんでした。
柳井、防府ともに、本日は甲斐牧師夏期休暇の中、信徒による礼拝が
行われました。
来週も礼拝は、10/4(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
10/1(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
本日の説教要旨です。
【マルコ福音書9章30-37節】
主の話には、神の国に近しい者として子どもが登場します。主のみ前で子どもたちは行儀良いですね。少なくとも主に抱かれます。その直前の弟子たちの、子ども染みている様子が際立ちます。ただ親にすがるしかない嬰児に主は、神にすがるという「模範」を語るのです。弟子たちは危機感がありませんが、併せて主は、このような弟子たちにも、そのご生涯を通して恵みの出来事を知らせるのです。見てゆきましょう。
主は前半部分で、二度目の受難予告を弟子たちに語ります。主は常に真剣です。所が弟子たちは主の予告に複雑な感情を示します「分からなかった」と。主の語る内容が腑に落ちないということです。なぜ主が死ぬのか。つまりメシアと死とが結び付かないのです。でも主の真意を確かめられません「怖くて尋ねられない」と。そして話を脇道に持って行くのです。それが「誰が一番偉いのか」という後半部分に至ります。
「誰が一番偉いか」いい大人がこんなことをと思うのは恥ずかしいです。「能力があるか」との意味なのですが、何れでもこれは、子どもっぽい言葉です。聖書はその言葉を子どもでなく弟子たちに言わせるのです。弟子たちへの痛烈な批判があります。弟子たちはこの時は不明だが今後、主の元に来た子どもたちを排除してしまいます。
主の言葉を頂いた弟子たちは改心したでしょうか。いいえ、胸が痛むほど物分かりが悪いのです。主の意に沿わぬ村に放火を試み、主の元に来た別の子を叱り飛ばし、三度目の受難予告の際に栄達を願う弟子たちです。しかしこの弟子たちですら主は受け入れたのです。それが主のみ心です。不遜な者も受け入れられたのです。私たちも同様なのです。不遜さや、心のにぶさに項垂れても主は導かれます。想起したいです。