2015年9月20日日曜日

9/20 礼拝の献花とメッセージ


 本日も、山陽のルーテル教会では礼拝が行われました。
 礼拝後には、各チャペルで茶菓や愛さんによる親睦が行われました。

 徳山では、会員作成による太巻きでした。
 サラダ、カニカマ、玉子サラダなど、初めて食するものもありました。

 益田、六日市では今週も礼拝が行われます。
 六日市では、今稲刈りが進められている時節です。
 どなたでもご自由にお越しください。

 来週も礼拝は、9/27(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 9/24(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。
 


【マルコ福音書82738節】
人生には、悲しみや憂いというものが付いて回ります。この世でも聖書でも「重荷」と呼びます。人が抱える物は重荷のみではありません。聖書によれば「十字架も抱える」のです。随分と荷物が多い私たちですね。けれど十字架は主と共に担うものなのです。今日の聖書では、そのことがはっきりと言われます。見ていきたいと思います。

主は自身の噂を尋ねます。ペトロは「メシア」と答えます。優良回答と思えるけれど、果たしてこれが主の求めた答えでしょうか。当時、主に求められたメシア像は、政治改革者でした。しかし、主は一挙に世の変革を為すのでなく、徐々に為されます。それが、弟子たちとのすれ違いになるのです。そのすれ違いは、日課後半で明らかです。主は受難予告をなさいます。その主を「脇で諌める」ペトロを、主は厳しく戒められます。

主の思いと、十字架を担うという後半の関連は何でしょうか。真に感謝なことがここにあります。私たちはもちろん、担うべき自身の十字架を負います。そこに意味を主は見出すのです。私たちが十字架を担う事で、それを抱えて生きることで、主の平和が徐々に進むということです。私たちの歩みは、徒労や疲れがある。それでも平和は為し得るし、作り得るのです。私たちは、日々主が用いられるものとされるのです。

聖書には「自分を捨てて十字架を担う」とありました。時として私たちは自身の十字架すら捨てたくなりますね。そんな私たちは、主から捨てられることはないのです。確かにペトロは一時主を捨てました。そのペトロを主は忘れずに拾われました。信仰者には、人生の重荷を下ろし、十字架を共に担う人がいるのです。私たちは、改めて、自身に手を述べて、私たち自身の十字架を共に担おうとされる主を覚えたいと思います。