2015年9月13日日曜日

9/13 礼拝献花とメッセージ


 本日の礼拝献花です。ピンクと白の穏やかな色合いでした。
 この日曜日は、山陽三教会では礼拝が行われました。
 今は夏の日差しが教会庭を照っていますが、風は涼しげです。

 来週も礼拝は、9/20(日) 
       徳山10:45~
       柳井10:30~
       防府15:30~
 9/17(木)には、
       益田14:00~ 
       六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。

 本日の説教要旨です。

 



【マルコ福音書73137節】
旧約聖書の「創世記」には神さまの「全て良しとされた」と言う言葉があります。私たちは「良し」とは思えない時があります。だが「良し」と神さまがお語り下さいます。それは、神さまが「良きを備える」ためです。今日の聖書も、最後に人々が「全て、素晴らしい」と言います。「全て良し」と同語です。主の奇跡を見た喜びの言葉です。諸事の前に立ち止まる私たちが「全て良し」と思えますか? 聖書に聴きたい。

主は不思議な行程をたどります。ティルス→シドン→デカポリス→ガリラヤ湖と。これは、一言で言えば道草です。主はそれだけ多く働くのです。目的地で一人を見出します。彼は聴覚と発語に障がいがありました。主は不思議な行為をなさいます。耳に指を、唇につばを塗るのです。当時つばには癒しの力があると信じられていました。昔の日本も同じ? 「エファタ」は呪文ではありません。主は呪術でなく当時の医療を為したのです。

それが「全て素晴らしい」の言葉に至ります。その中で見過ごせない主の行為があります。それは「深く息を付く」の言葉です。これは「溜息」「呻く」とも訳せる言葉です。目前には舌が回らない人がいます。本人は何がしかを主に訴えたいのですが「呻く」ことしか出来ません。主はこの人を前に「同じく呻く」のです。主の奇跡の根底には「共感」があります。「聞こえない」彼にも主は、心に届くと信じ言葉をかけます。

「深く息をつく」「呻く」「溜息」は私たちの日常でしょう。ローマ書には「霊が弱い私たちを助け、言葉にならない呻きを祈りとする」(ロ8:26)とあります。私たちの溜息も祈りとなるのです。ただ一つ覚えたいのは、主のみ前で溜息を為すということです。「全て良し」の言葉と共に、先に進む力が与えられるのです。全てを主に委ねたい。