柳井チャペルには、「一粒の麦」の方々が働いておられますが、
その働きの一つ、畑でこんなに見事なオクラが育っています。
本日の徳山チャペルの献花です。
私の不注意から、本日お二人の方が献花を持ち寄られることになりましたが、
いわば「合作」のような形でこの姿になりました。
ありがとうございました。
今週、来週ともに、シオン教会では礼拝が以下のように
行われます。何れの礼拝、集会もどなたでもご自由にお集まりいただけます。
来週も礼拝は、9/13(日)
徳山10:45~
柳井10:30~
防府15:30~
9/10(木)には、
益田14:00~
六日市19:30~ です。 どなたでもご自由にお越しください。
【マルコ福音書7章24-30節】
今日の聖書は「ティルスの地方」が舞台でした。どのような地方か。異邦の地でした。主の時代、聖書の神は地域的な神とされていました。これにはもちろん、時代的な制約のせいなのですが「神はユダヤ人を愛し,異邦人は次」という理解でした。果たして神さまは一民族のみの神さまでしょうか。そうではないことを主が示されます。
この話の結論は、主は当時の枠組みを乗り越えた話です。母は娘の癒しを願う。対して主は「失われた羊」の大事を言います。主の初めの意図は「先ず身近な所から」「子どもたち」を助けるということでした。主は「犬」という、当時の理解では「蔑称」とも取れる言葉を言います。だが彼女は主の答えを逆手に取るのです。子犬でもパンくずは頂くと。「恵みは特定の所のみではない。」余りに余る恵みと考える女性です。
願いを一人の方に保ち続けるのは忍耐が要ります。主がこの女性に見たのはその強さ、ひたむきさでした。故に主は当時の枠組みを超えて彼女に近づくのです。別の箇所で、主はどんな人にも「太陽も雨」も降ると言われます。その中で、日傘や雨傘、帽子や雨合羽を持つか持たないかでは違うのです。皆さんは果たして、自身の守りを持つでしょうか。持つのです。今日の聖書の要点は、主は自身の枠を超え、この女性の日傘、雨傘となったということです。目前の人が大切であり、即ち私たちなのです。
話にパンくずが出てくることにも注目です。パンくずも異邦人も、取るに足らないものの代表格でした。だが主の眼差しに、取るに足らないものはないのです。「主よ」と呼ぶことを大切にしたい。「耐えられないような試練には併せない。逃れの場がある」と聖書は語ります。様々なことが重なる世の中で、寄る辺を持ちつつ生きよう。