2018年12月9日日曜日

12/9 礼拝とイルミネーション

  12/8 雪がちらつく徳山Cでクリスマスイルミネーションの準備が行われました。
 12/8 何かの形になりつつあります。
  12/6 クリスマスイルミネーションの一部を撮影しました。
  牧師室外壁です。
 12/9 徳山礼拝後の1ショットです。
曇り空でしたが、夜、どのように光るか楽しみです。

今週、来週と礼拝は以下の日程で行われます。

12/11 火曜日 午前 水原牧師 柳井 


        15時 徳山聖書研究会 
 
12/14   金曜日 牧師 呉安浦 出張

12/15 土曜日 12時 益田教会クリスマス礼拝 
           19時 六日市礼拝 

12/16 日曜日   10時45分 徳山教会礼拝
        12時 礼拝後、バイオリンとチェロとピアノのミニコンサート


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。

今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 3章1-6節
 イエスさまが実在したのかどうか。学者と呼ばれる方々は主の実在を、聖書以外の様々な古代資料の分析を通して行っています。主と同時代の歴史家たちは、主の事柄を自身の著作に記載していることは確かです。今日の聖書の記載者、ルカも、主を当時の時代背景に照らして記しています。「皇帝ティベリウスの治世の第15年」という記載から、主の活動開始年と十字架(復活)の年代が分かるのです。活動開始が西暦29年、十字架と復活が西暦32年です。ついでに言うと、主の誕生は紀元前4年と思われています。

 さて、聖書は冒頭で、当時の人物の役職や名前を記載しています。このことが意味するのは、今日の主要人物である洗礼者ヨハネや主も、時代の中に生き、時代にほんろうされたということです。冒頭記載の人物はそのほとんどが、ヨハネや主の刑死に関わりのある人物です。「時代にほんろうされる」というと話が大きくなりますが、要は「人間社会の荒波にもまれ、困難を味わった」ということです。それは私たちにも重なりますね。

 その「時代からのほんろう」「人間社会の荒波」を、聖書はイザヤ書からの言葉を借りて「谷や山、曲がった道やでこぼこの道」と表現します。ユダヤの国土は日本と同様、起伏に富み春夏秋冬があったようですが、果たしてイザヤやルカは、ユダヤに住む人なら当たり前に思うことを伝えたいだけなのか。これらの「谷や山」とは、単に自然の描写でなく、ヨハネや主、そして聖書を読む私たちの人生そのものでないか、と訴えるのです。そして時に私たちは、「谷や山」を歩くことも、誰かに「谷や山」を強いることもあります。

 ヨハネが言う「悔い改め」とは、被害者としての私たちだけでなく、加害者としての私たちの生き方を、神さまのみ前に改めることに他なりません。そしてキリスト教の悔い改めとは、神さまは常に私たちの方を向いている。その方に向き直ることを告げるのです。そして主は、いと高き天に留まらず、地上に生まれ、人の荒波に揉まれました。だからこそ「主が共にある」の言葉が輝いてきます。どんなあなたでも、主が共にあります。