2019年6月25日火曜日

6/22.23.26 礼拝と献花と海

 6/22 柳井C礼拝の帰り、海に寄りました。室積海岸です。
 6/23 徳山C礼拝後に会員が花壇の整理と、グリーンカーテン用の
 ゴーヤをセットアップして下さいました。
  6/23 防府C礼拝の献花と聖壇です。
すこし遡って6/22 柳井C礼拝堂です。聖霊降臨節がはじまりました。

 今週、来週のシオン教会礼拝は以下、記載のとおりとなります。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

6/25 火曜日 15時 徳山聖研

6/26 水曜日 19時 六日市C礼拝


6/27 木曜日 14時 牧師広島出張



6/29 土曜日 15時 柳井C礼拝(中島共生牧師)
 
6/9 日曜日 10時45分 徳山C礼拝(藤井邦夫牧師)
       15時半 防府C礼拝(中島共生牧師)


いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
水原牧師は今週土、日と厚狭、下関の礼拝を行います。
 今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書711-17
「わが子を先に見送る母の思い」とは、体験したものにしか分からない辛さでしょう。子どもの可能性、現状、希望が一気に失われる瞬間。受け止め難い心が発露される瞬間。それが子どもの葬儀というものであると思います。ここ、ナインと呼ばれる町に一組の母子がいました。母は寡婦。その傍には物言わぬ身となった息子が付していました。その息子は町の人々に運ばれ、町の外の墓地に運ばれるという場面を聖書は語ります。

そこに主が現れます。主はこの母を「憐れに思う」、これは「断腸の思い」とも表現できます。その場面を見て一目で主は、この母の思いを悟られた。息子を失った母の瞬間的な痛み、今後の不安。「聖なる怒り」もあったかもしれません。儀礼に過ぎない葬儀、いたずらに騒めく「泣く人々」。主は子どもを蘇生させます。蘇生奇蹟を為した「大預言者」に匹敵する出来事に、人々は感心します(16)。若者は母の手に返されたのです(15)

科学医療未発達で、知見と呪術的行為に満ちた医療の時代、どのような病でも死に至る可能性は十分にありました。死は日常的であったけれども、それは第三者の思い。見送る者にしてみれば、掛け替えの無い人を奪うのが死だったのです。主が為された「蘇生」は、一時は確かに母を、そして子を喜ばせました。しかしいずれ双方がもう一度どちらかを見送る時が来ます。この主の蘇生の奇跡には、では何の意味があったのか。

それは冒頭部分から実は明示されています。墓地へ向かう葬送の列と主の一行とが町の門で出会う。死を押しとどめつつ、向かい合う主の姿が記載されています。そしてナインの人々は「神がその民を心にかけて下さった(16)」と言います。「神が民のところに来た」という意味です。母子はいずれ、どちらかがどちらかを見送る際に、確かな確信を抱きつつ見送ったと信じます。「神は共にある」「主は死と向かい合う」そして「再会することができる」。確かに一時の別れは筆舌にし難いものがあります。しかしそこで私たちは、覚えたい。この別れは永遠ではない。残された者の働きを、主は祝されるのです。