2019年6月30日日曜日

6/29.30 厚狭と下関

 西中国地区(西教区の地区割の一つ、山口県と島根県)の講壇交換として、
 私は6/29は厚狭教会に出かけて来ました。
 厚狭教会の聖壇です。
6/30は下関教会。同教会の聖壇です。

熊本県、大分県を襲っている大雨の知らせを憂いに思いつつ、
本日も礼拝が行われました。

今週の教会、牧師日程は以下の通りです。

礼拝時間の変更があります。どうぞご注意ください。

7/2 火曜日 15時 徳山聖研

7/3 水曜日 19時 六日市C礼拝

7/6 土曜日 15時 柳井C礼拝
 
7/7 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
       15時半 防府C礼拝

いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。


ルカ福音書 7:36-50
この女性の力には驚かされます。「罪の女」と規定される女性は、規定するファリサイ派とは「水と油」の関係でした。その女性が一念発起、ファリサイ派の家を訪ねるのです(37)。目的は家に居られる主でした。恐らく家にいた大勢に紛れ、この女性は主の後ろに近づく。その背中を見るにつけ、評判通り(17)の優しさを感じ取ったのでしょう。その眼には自ずと涙が浮かび、主の足を濡らす。そして香油と髪の毛を用いて拭うのです。

この女性の行為(38)を心中で咎めるファリサイ派です。「分離するもの」ファリサイ派として、この女性を罪の女と改めて思う。と言ってもその心の思いは直ぐに知られ、主から「赦し」の例え話(41-43)を頂くのです。「負い目を負った双方も共に、赦された」。ではこの例え話の中に、ファリサイ派シモンは居たのか。「負い目を負っているのに、負っていない」ということが例え話に続く主のみ言葉に示されるのです。主は、自身の行いを棚に上げて他者の行動に難癖を付けるファリサイ派シモンの姿を明らかにするのです。

「足濯ぎの水」「接吻の挨拶」「敬意の油」が無かったことを主はファリサイ派に告げます(44-46)。家長として、客人に為すべきだったこれらのことを、「常識派」であるファリサイ派はなぜ行わなかったのか。そして「非常識」とファリサイ派が見做すこの女性が為したことを、なぜ素直に喜べないのか。主はこのファリサイ派の「家に招待したまことの気持ち(自己の権威付け)」を指摘しつつ、自身の持ち物の中で最大限のことを為したことを女性の「信仰」と宣言し、女性を「罪」から解放するのです。「安心して行きなさい」と。

「何が出来るか、何をしなかったか」という「行い」に最終的に焦点が当てられます。しかし前提は「主とお会いした」ことがこの二人に当てはまります。主に見えつつ、ファリサイ派は自己の体面をつくろった。しかし女性は自らを主に捧げた。他福音書では、自己の神と世に奉献という趣旨で十字架直前に置かれているこの話を受け止めたい。そして「私のために捧げられた」主が、この日々も共にあるが故に、為し得ることを行いたい。