「四旬節ですので、華美な花は避けました」とのことです。
4/5 広島教会となります。
立野牧師(九州教区 大江教会→広島教会)の就任式のため訪問しました。
4/5 には徳山礼拝所でも礼拝が行われましたが、防府礼拝所には合同礼拝を
お願いいたしました。
今週、来週の礼拝は記載の通りです。
礼拝日時に変更がある教会があります。ご留意ください。
4/8 水曜日 六日市礼拝 しばらくの間、家庭礼拝といたします。
4/10 金曜日 聖書を学ぶ会 於:徳山
4/11 土曜日 15時 柳井C礼拝
4/12 日曜日 10時45分 徳山C礼拝
15時半 防府C礼拝
いずれの礼拝、集会にもどなたでもお越し頂けます。
今日の礼拝メッセージ要約は以下の通りです。
【マタイ福音書27章45-56節】
「三つ子の魂百まで」と言いますが、幼い頃聞いた言葉や歌は忘れ難いものです。母の歌、父の言葉などが心に残っていることもあります。旧約聖書の時代、家庭教育においてその両親は聖書を様々な形で子に教えたのです。主の母マリアが「マリアの賛歌(ルカ1:46-)」を即座に歌ったのは14歳の頃。聖書への知見と信仰無くしては、あの賛歌は生まれなかったでしょう。そしてその母に育てられた主は、本日詩編を歌います。
主の最期直前の言葉として知られる「我が神(46)…」これは、旧約聖書の詩編22編冒頭からの引用となります。あえて原語で「エリ、エリ(46)…」と記載することを通し、一層の臨場感を感じます。「主が家庭教育を経たヘブライ人であること。父母から聞いた詩編を通し苦境を語る」ことがマタイの強調点です。主の傍には強盗が二名。この書では二人とも主を侮蔑します。孤立無援の中で主はしかし、神への信頼を抱くのです。
その主の姿は、見守る多くの人心に刻まれます。中でも「ゼベダイの子等の母(56)」には格別だったのでないかと思われます。彼らの子は「ヤコブ、ヨハネ」、同節内の同名人物とは別と思われますが、彼らは福音書内でも「大言壮語、激情家、立身出世願望」との姿を見せます。しかし主が逮捕されると同時に息子たちはどこか離散。母の思いは如何か。育てた息子たちをこの場所に引きずり出すことも出来ず、しかし主を見捨てることも出来ず、葛藤の中で主の最期を見届ける思いか。そして主は地上の命を終えます。
主は「死を迎え」、ヤコブとヨハネの兄弟たちも「弟子としての死を迎えた」ことになります。しかしその瞬間、不思議な現象を記載します。エルサレム城内の事柄ですので、時系列に多少の差はありますが、死に至ったものが再度命を与えられた描写です。この「死から生へ」の事柄の意味は、この時には不明だったでしょう。しかし三日後、「ゼベダイの子等の母」を含む弟子たちは、主の復活を知るのです。死はなく、死に至るような落胆の状況からも救いと導きは確かに存在する。そのことを思いつつ、日々を過ごしたい。